2023/07/13
当時、死刑判決をしてしまった裁判官の一人・熊本典道 (のりみち) 氏も調べれば調べるほど袴田巖さんは無罪だと言いました。
1966年8月18日~9月6日
のども乾き、おなかも空きます。
眠くなり、意識もうろう。
(*_*; 恥ずかしい思いをして取調官の前でおしっこ。3,4人の取調官は10人になり暴力も。
20日間も平均12時間、最長17時間の取調が終わると 意図的にアルコール依存症の受刑者と同じ部屋へ収容されました。その受刑者は夜中まで大騒ぎ 睡眠さえも妨げられました。
楽になりたい、
私がやりました。
*自白の強要
1966[昭和41年)、静岡県清水市の味噌工場で出火、全焼した現場から、刃物による多数の傷を受けた一家4人の死体が発見されました。放火でした。現場近くから駆け付けた袴田巌さんは消火活動によってけがをしました。
1度死刑だと決めた事をふりだしに戻すのは裁判官のプライド?ようですが、袴田さんの獄中生活は45年?当時は75歳 (いま80後半) くらい?長期間の拘禁反応で精神障害状態に陥っているようです。
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- あれから数年後、
- 袴田巖事件に関する話題に薄れてしまった自分は、ラジオ番組で袴田巖さんの再審?仮釈放 と 4家族うち唯一生存していた長女 (67歳 / 事件とき19歳) が袴田さん仮釈放の翌日に亡くなっていたという News を耳にしました。
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- (・・? そのとき一瞬?
- ん?と思ったのですが、警察の発表によると、4家族うち唯一生存していた長女 (67歳 / 事件とき19歳) の死因は事件性はなく病死。となっていました。
- 被害者家族:専務 (41歳) 、妻 (38歳) 、次女 (17歳) 、長男 (14歳) 。被害者家族の長女 (19歳) は事件発生時、別棟の祖父母の家にいたので助かっています。
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- むかし2007年の前後ころ、ジムに来賓していた支援弁護団ような方の説明では、4家族うち唯一生存していた長女 (事件とき19歳) は「事件はもう終わった / 忘れたい」? という風な事を言っていた記憶があります。
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- 2023年ころ、
- コガネみそ事件 (袴田巖事件) に関する News やブログをよく見かけるようになって来て。ある方のブログ経由で気になる情報を目にしました。
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- そうした情報は憶測の範囲でありますが、当時の警察もそうした情報を知っていたと思うけど、どうして?不思議が芽生えて来てしまい。本の少し調べて見ました。
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- 被害者4家族は怨恨を思わせる残酷な殺害をされていました。
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- 専務:肋骨を切断するほどの15ヶ所の刺し傷、妻:7ヶ所の刺し傷、次女:肋骨を切断し肺と心臓を貫通する9ヶ所の刺し傷、長男:10ヶ所の刺し傷。
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- 1人殺害の間に誰か気づく物で。また、たった1人で行える犯行ではないように思います。
- (・・? 当時の警察はなぜ?
- たった1人の袴田さんを犯人に仕立たのか?疑問が出て来ました。
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- 色いろ調べて見ると、
- 袴田巖事件 (冤罪事件) の前にも類似の死刑判決 (冤罪事件) や 無期懲役 (冤罪事件) が複数存在し、拷問王と呼ばれた紅林麻雄 (くればやしアサオ) という人物が重要なキーワードを持ち、その部下で内部告発した山崎兵八は闇に葬り去られた出来事があったようです。
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- あくまでも、憶測の範囲でありますが、もしも?そうした体質が存続していたとすると いつの日か自分がその身になる可能性ある問題で。それはルーレットのように犯罪者が決められてしまい、その叫び声はどこにも届かづ闇から闇に葬り去られ → また新たなルーレットは始まる → 本当に恐ろしい話題です。
- … 袴田さんの作文 →
お母さん 僕の憎い奴は、僕を正常ではない状態にして犯人に作りあげようとした奴です。
神様
僕は犯人ではありません。
僕は毎日叫んでいます。
ここ静岡の風にのって世間の人々の耳に届くことをただひたすらに祈って僕は叫ぶ。
お母さん
人生とは七転八起とか申します。
最後に笑う人が勝つとか申します。
又、皆さんとで笑って話すときが絶対きます。
1967(昭和42)年2月 母への手紙
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たった1人ではできない犯行、
たった1人では解決できない問題。
もしも自分がルーレットに当選してしまったら自分はどこに行ってしまうのだろう。恐ろしいけど、目を背けては行けない問題に思えて来ました。
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