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恐ろしいルーレット

ここ最近、
コガネみそ事件 (袴田巖事件) に関する News やブログをよく見かけるようになって来ました。

(・・; 恥ずかしながら;
自分も袴田巖事件に関する話題を知っていたのですが;日に日に、その関心が薄れて行っていました。本当は少しでも多く人々に知ってもらうべき話題で、いつの日か自分がその身になる可能性ある問題でもありました。

それはルーレットのように犯罪者が決められてしまい、その叫び声はどこにも届かづ闇から闇に葬り去られ → また新たなルーレットは始まる → 本当に恐ろしい話題です。



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袴田巖 (はかまたイワオ) さんは無実の死刑囚。むかし2007年の前後ころ、関東にあるボクシングジムの会長が袴田巖事件 (冤罪事件) の再審請求 / 名誉回復運動に協力し。当時、通っていたジムにも袴田巖さんのお姉さんと支援弁護団ような方々を招き事件に関する勉強会を行い。本の少しだけ、後楽園ホールや各地の試合会場で、事件のパンフレット配りや支援金集めのTシャツ販売など。お手伝いした事あります。
その勉強会で印象に残った事は、その冤罪事件は、国家的なプライド?犯罪?ような物が隠れている?と感じた事です。

当時、死刑判決をしてしまった裁判官の一人・熊本典道 (のりみち) 氏も調べれば調べるほど袴田巖さんは無罪だと言いました。

公的な機関が、1度死刑だと決めた事をふりだしに戻すのは警察や検察・裁判官のプライド?ような物を当時から感じていました。

(・・? もしも?
国家的なプライド事件だとすると てんびん座 無実だけど死刑囚にされてしまった袴田巖さんの人生はどこに行ってしまうのか?自分がそのルーレットに当選してしまったら?精神的に異常が芽生えて来る物です。

ご迷惑をおかけします 関連情報 ご迷惑をおかけします


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1966年8月18日~9月6日

炎天下の取調室でしたアップ

私はやっていませんあせる

のども乾き、おなかも空きます。

眠くなり、意識もうろう。

(*_*; 恥ずかしい思いをして取調官の前でおしっこ。3,4人の取調官は10人になり暴力も。


20日間も平均12時間、最長17時間の取調が終わると 星空 意図的にアルコール依存症の受刑者と同じ部屋へ収容されました。その受刑者は夜中まで大騒ぎ 爆弾 睡眠さえも妨げられました。


楽になりたい、

私がやりました。

*自白の強要


袴田事件のあらまし

1966[昭和41年)、静岡県清水市の味噌工場で出火、全焼した現場から、刃物による多数の傷を受けた一家4人の死体が発見されました。放火でした。現場近くから駆け付けた袴田巌さんは消火活動によってけがをしました。


袴田巌さんは1936年静岡県浜名郡生まれ、中学卒業と同時にはじめたボクシングでフェザー級6位までのぼりましたが、その後は体をこわし、事件発生の前年から味噌会社の従業員として工場2階の寮に住み込み働いていました。家族とはいっしょに食事をする仲でした。

警察は証拠も見つからないままプロボクサーなのでやりかねないと袴田さんを犯人と決め付け、自白を強要し、裁判所もその誤りを正すことなく死刑判決を下しました。

袴田さんの部屋から肉眼ではみえない微量の血痕しか付いてないパジャマを押収し、マスコミには「血染のパジャマ発見」と大々的に発表しました テレビ


ところが一審の公判中1967年8月31日に工場内の味噌タンクから5点の証拠衣類(ズボン、ステテコ、ブリーフ、上着、下着)が見つかり、突然パジャマから一転ズボンにすり替えられました。


まったくサイズは合いませんでしたが、味噌タンクに浸かり縮んだ?袴田さんが太った?当時の裁判官の一人も調べれば調べるほど無罪だといいました。

1度死刑だと決めた事をふりだしに戻すのは裁判官のプライド?ようですが、袴田さんの獄中生活は45年?当時は75歳 (いま80後半) くらい?長期間の拘禁反応で精神障害状態に陥っているようです。




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あれから数年後、
袴田巖事件に関する話題に薄れてしまった自分は、ラジオ番組で袴田巖さんの再審?仮釈放 と 4家族うち唯一生存していた長女 (67歳 / 事件とき19歳) が袴田さん仮釈放の翌日に亡くなっていたという News を耳にしました。
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(・・? そのとき一瞬?
ん?と思ったのですが、警察の発表によると、4家族うち唯一生存していた長女 (67歳 / 事件とき19歳) の死因は事件性はなく病死。となっていました。

被害者家族:専務 (41歳) 、妻 (38歳) 、次女 (17歳) 、長男 (14歳) 。被害者家族の長女 (19歳) は事件発生時、別棟の祖父母の家にいたので助かっています。
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むかし2007年の前後ころ、ジムに来賓していた支援弁護団ような方の説明では、4家族うち唯一生存していた長女 (事件とき19歳) は「事件はもう終わった / 忘れたい」?  という風な事を言っていた記憶があります。



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2023年ころ、
コガネみそ事件 (袴田巖事件) に関する News やブログをよく見かけるようになって来て。ある方のブログ経由で気になる情報を目にしました。


注意

そうした情報は憶測の範囲でありますが、当時の警察もそうした情報を知っていたと思うけど、どうして?不思議が芽生えて来てしまい。本の少し調べて見ました。

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被害者4家族は怨恨を思わせる残酷な殺害をされていました。
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専務:肋骨を切断するほどの15ヶ所の刺し傷、妻:7ヶ所の刺し傷、次女:肋骨を切断し肺と心臓を貫通する9ヶ所の刺し傷、長男:10ヶ所の刺し傷。
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1人殺害の間に誰か気づく物で。また、たった1人で行える犯行ではないように思います。

(・・? 当時の警察はなぜ?
たった1人の袴田さんを犯人に仕立たのか?疑問が出て来ました。


ダンプカー―…ご迷惑をおかけします―…ご迷惑をおかけします工事中


色いろ調べて見ると、
袴田巖事件 (冤罪事件) の前にも類似の死刑判決 (冤罪事件) や 無期懲役 (冤罪事件) が複数存在し、拷問王と呼ばれた紅林麻雄 (くればやしアサオ) という人物が重要なキーワードを持ち、その部下で内部告発した山崎兵八は闇に葬り去られた出来事があったようです。


1948年11月の「幸浦事件(死刑判決後、無罪)」、50年1月の「二俣事件(死刑判決後、無罪)」、50年5月の「小島事件(無期懲役判決後、無罪)」、54年3月の「島田事件(死刑判決後、無罪)」、そして「こがね味噌事件(袴田巖事件 / 冤罪事件)」起きた。


1966年
袴田巖事件 (冤罪事件) の時代には、
拷問王と呼ばれた紅林麻雄は亡くなっていたけど、その部下による伝統的手法や隠蔽体質は存続していたという情報も見られます。

注意

あくまでも憶測の範囲でありますが、もしも?そうした体質が存続していたとすると 自転車 いつの日か自分がその身になる可能性ある問題で。それはルーレットのように犯罪者が決められてしまい、その叫び声はどこにも届かづ闇から闇に葬り去られ → また新たなルーレットは始まる → 本当に恐ろしい話題です。

ご迷惑をおかけします 袴田さんの作文 ご迷惑をおかけします

お母さん メモ 僕の憎い奴は、僕を正常ではない状態にして犯人に作りあげようとした奴です。


神様

僕は犯人ではありません。

僕は毎日叫んでいます。

ここ静岡の風にのって世間の人々の耳に届くことをただひたすらに祈って僕は叫ぶ。


お母さん 

人生とは七転八起とか申します。

最後に笑う人が勝つとか申します。

又、皆さんとで笑って話すときが絶対きます。


1967(昭和42)年2月 メモ 母への手紙


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たった1人ではできない犯行、

たった1人では解決できない問題。

もしも自分がルーレットに当選してしまったら自分はどこに行ってしまうのだろう。恐ろしいけど、目を背けては行けない問題に思えて来ました。




竹。。




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