2020/06/05
13世紀 / 日本は鎌倉時代、
朝鮮半島は高麗 (こうらい) の時代。
高麗王朝の政権は、文班 (文臣政権) と武班 (武臣政権) の2つ政権 両班 (やんばん) から成り、文班 > 武班の関係であったようです。
『高麗』は30年ほど「元」に抵抗し続けました。しかし、長期の戦争に疲れ果て「元」に従おうとする勢力が武臣政権を倒し、再び文臣政権に逆転します。そして「元」に入朝して降伏、戦争は終結しました。
それ以来『高麗』は「元」の従属国となり、日本にも進入して行きます。
鎌倉時代、2度の元寇には「元の人」よりも⇔「元」に国を奪われた『宋の人と高麗人』が多く乗っていました。また、高麗人どうしでも『内紛』がありました。
文班 (文臣政権) に敗れた 武班 (武臣政権) の残党は、その後も抵抗し続け、南下をして行き『三別抄』と呼ばれいました。
… 高麗王朝の →
武班 (武臣政権) の中に三別抄 (さんべつしょう) という臨時の軍組織 (私兵) がありました。
*別抄は臨時軍
当初は、夜間の盗賊取締りをする「夜別抄」に起源をもつ臨時組織であったが、続発する反乱により半ば常備軍化し、左別抄 と 右別抄の2部隊となり、後ほど 元 (蒙古族) の捕虜から脱出した人員による「神義軍」を加えて『三別抄』と呼称されるようになった。
崔氏政権 (武班) のもとで拡大され、 元 (蒙古族) との戦いの際には「官兵」の役割もしていたようです。https://ja.m.wikipedia./三別抄
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1271年5月高麗の賊兵・三別抄は、高麗・元の連合軍の攻撃を受け、根拠地だった珍島と済州島で陥落し、姿を消しました。
三別抄の乱が完全に鎮圧されたのが1273年、元と高麗の連合軍が日本を襲った (文永の役 / 元寇) のが1274年でした。
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[ 三別抄の乱 ]
1270年、高麗における元の支配に対して起こった反発運動。高麗の賊兵・三別抄は、もとは武臣政権 (武班) の臨時軍であったが、文臣政権 (文班) が 元 に服属したことに対して反乱を起こし、民衆の支持のもと珍島、済州島を拠点に高麗の官兵に反発し続けました。
1271年5月に高麗の賊兵となった三別抄は、高麗と元の連合軍に追い詰められ、1273年に朝鮮半島の南の珍島と済州島で陥落し、姿を消しました。その翌年の1274年、元軍は高麗軍を動員して日本遠征 (文永の役 / 元寇) に向かった。
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平成9年、 沖縄県浦添市の伊祖城跡、浦添城跡から「癸酉年高麗瓦匠造りの銘」の入った瓦が出土し、世間の人々を驚かせました!それだけでなく、高麗瓦の工場窯跡まで発掘されました。これまで、板葺きだと見られた伊祖城、浦添城の上には『板』ではなく『瓦』が乗っていた可能性がある驚くべき出土でありました。
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さかのぼること、
南北朝時代 ~ 室町時代にかけて、
中山国 (琉球国) の王統は、
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近年、浦添城跡から「癸酉年高麗瓦匠造りの銘」の入った高麗瓦が出土した事について、
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三別抄のその後について 編集
20世紀後半に、沖縄県浦添市浦添ようどれで高麗瓦が発掘された。この瓦の文様は、三別抄が珍島に造営した龍蔵城跡から出土した瓦の文様と類似している。浦添ようどれの瓦には「癸酉年高麗瓦匠造」という刻印があるが、癸酉年は1153年、1273年、1333年、1393年などが該当する。これが1273年だとすれば、三別抄が済州島で滅ぼされた年と同一であるため、三別抄の生き残りの人々が沖縄に逃避してきたのではと推測する研究者もいる。 https://ja.m.wikipedia./三別抄
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ー ウチナーと沖縄 ー
沖縄 (おきなわ) の方言名は沖縄 (ウチナー) になっていますが、「沖縄」という文字よりも『ウチナー』という言葉の方が古く、琉球の時代から琉球の人々は自分の国の事を『ウチナー』と呼んでおり、江戸時代の儒学者・新井白石が『ウチナー』の音を「沖縄」という当て字にしたと云われています。
… 沖縄語では →
「庭 (にわ) 」の事を『庭 (ナー) 』と言います。
朝廷、法廷、校庭、家庭など。
「廷 / 庭』は国を表現する事も。
高麗では、
自分の国の事をウリナラ?
琉球では、
自分の国の事をウチナー。
と呼んでいたようです。
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内容は複雑しますが、
中山国 (琉球国) は察度王統 (2代) ~ 第一尚氏王統 (7代) に王統交替 (政権交代) したのですが、
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1394年、一休さんが生まれた年、
南山国の王子・承察度 (うふさと) は、朝鮮半島の晋陽に亡命しました。
*一休さんのモデルは、室町時代の臨済宗(禅宗)の僧侶で詩人の 一休宗純だといいます。
南山国は、本家=糸満市の『島尻』大里城
⇔ 分家=大里村の『島添』大里城
と2つに分別していました。
複雑なのは、
初代・大里 (うふさと) 王の長男も大里王子 → その子の名前が承察度 (うふさと) →また承察度など‥ 親子だけでなく、兄弟にも類似の名前をつけていました。
南山国は、わずか短期間で兄弟どうし身内どうし亡ぼし合う 内紛一族でありました。
実は‥
尚巴志は南山国の分家 =『島添』大里城の 汪英紫(うーえいし)の味方をしていました。
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尚巴志は、
尚巴志は、さいしょに察度王統の中山国(首里城)を乗っ取り → 北山国(今帰仁城)を亡ぼし → 最期(さいご)に南山国(大里城)を滅ぼし → 琉球国を統一したと云われています。
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話をもとに戻して見ると?
1394年、一休さんが生まれた年、
南山国の王子・承察度(うふさと)は、朝鮮半島の晋陽に亡命しました。
承察度(うふさと)が亡命した朝鮮半島の晋陽は、高麗時代の国境でありました。
承察度(うふさと)は文献によると、承察度(しょうさっと)と記される場合もありますが、 温沙道(うぇんさと)と号して朝鮮皇帝と謁見し、皇帝から手厚い優遇を受けていた。
王権が「王氏高麗」~『李氏朝鮮』王朝に交替すると、朝鮮半島では「王』という氏号は一時期、姿を消した。云われています。
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それにしても?
朝鮮半島には、承察度王子を受け入れる関係者がいた、そして、優遇されていたのは? なぜか? という疑問が生まれてきます。
また、
当時の李氏朝鮮王朝の首都・漢城(ソウル)ではなく ⇔ 高麗時代の国境・晋陽であった事、南山国の王統は大里(うふさと / うーじゃとぅ)、承察度(うふさっと)、 汪英紫(うーえいし)など‥ 大、 承、 汪「うー / ウフ」という文字にこだわりを持つのか?‥ 気になりました。
王権が「王氏高麗」~『李氏朝鮮』王朝に交替すると、朝鮮半島では「王 / ワン』← 「うー / ウフ」という氏号は姿を消しました。
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『もうそう』半分お話です。
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