2025/06/23
1945年2月、
島田叡 (あきら) 氏が沖縄県知事として任命 → 来島する。
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E5%B3%B6%E7%94%B0%E5%8F%A1
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島田知事は戦死 ⇆ 前任の泉守紀 (しゅき) 知事は自分の身代わりに島田知事は亡くなってしまった。と、哀しんでいた。といいます。
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E6%B3%89%E5%AE%88%E7%B4%80
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当時の県知事は内務省による任命制。前任の泉知事は内務省関係者に呼び掛け沖縄県知事から転任する動きを見せていたので ⇆ 一見すると 戦争前に逃亡した
ようにも見えます
平成の前半ころ 〜
歴史研究家や新聞記者の間で ⇆ 別の視点が語られるようになっているようです。.
これから戦争が始まろうとする時代。来島するのは県知事だけではなく、多方面から軍関係者も来島していました。
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軍は国土防衛、
県は住民保護。
という政治をいいます。
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軍のトップは牛島満 (みつる) 、
県のトップは島田叡 (あきら) 。
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詳しくは解りませんが、
当初は良好な関係にあった牛島と島田の間にも ⇆ 戦況の悪化に伴い温度差も芽生えていたようです。
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島田は県庁・警察部壕 (那覇市真地) で南部地域緊急市町村会議を招集し「行政官は住民を飢えさせることだけはしてはならない」と述べ、食糧増産を指示するとともに戦意高揚を市町村長に命じた。
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5月22日、
米軍上陸後、
牛島満 (国土防衛) と島田叡 (住民保護) の政治に温度差 牛島は「最期まで戦う事」⇔ 島田は『小声で生きろ』と、県職員たちに語り ⇆ 自身は投降を拒み戦死した事が前任の泉知事と後任の島田知事
対照的な印象とも結び付く
お話で。島田知事を題材とした映画やドラマもあります。
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島守の塔 →ー―…
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… 久米島では
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戦争が終了した8月18日に投降を呼び掛けた住民1家4名が分遣隊長の鹿山兵曹長によつて虐殺される事件が起きた。後ほど鹿山兵曹長は、それは「虐殺」ではなく『信念』と語っていました。
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… 昨今では
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… 戦前の日本は
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内務省が官の中の官と呼ばれ、内務省は県知事の任命や警察・特高・隣組制度・戸籍制度・共同体構想・宗教的な対抗政策・地方自治政策・防諜 (←住民どうし監視) 政策など。官と民の連絡部の役割をしていたようです。
個人では多種多様な視点 ⇔ 組織では共同体構想 → みんなが1つになればなるほど ⇆ 心理的な1体感ような物も芽生えるように思います。
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(・・? 内容は飛ぶけど?
沖縄戦は太平洋戦争の1部で、米国側も日本側も「民衆の解放」と『アジアの解放』という1方的な「党是』を持っていた。
戦時の米国人も日本人も1人一人は多種多様な視点を持っていたけど ⇔ その組織的な「党是』が大きくなればなるほど ⇆ 個人では対応できない集団心理に進展を思います。
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当時の欧米人は「文明化の使命」といい未開地のアフリカ人やアジア人を「文明化する使命」という宗教観を持っていたようです。
↓↑それに対して ⇔ もとより多神多仏であった日本は国家神道を基軸に対抗文明をしていたようで。戦前の祝日 ⇆ 新嘗祭はGHQによつて勤労感謝の日に変更。その他にも宗教的な祝日が変更といいます。
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宗教心に対して宗教心で対抗 ← その宗教的な対抗政策を行うも内務省の仕事ため、内務省はGHQによつて解体された。といいます。
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西田議員が日本軍が恐怖? ⇔ 米軍が解放?と誤発表していた事との関連性もあるかもしれません。その共催にも宗教的な後援会がありました。
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沖縄戦は米軍の心理戦が本格的に行われた戦争で心理作戦部隊も多用。心理戦では、米軍側は投降や捕虜を呼び掛けるビラ ⇔ 日本側は投降も捕虜も許さない教訓。← そのため、1度米軍の捕虜になった者が仲間に投降を呼び掛けた際 ⇆ その人物は殺害される事もあった。当時は「軍民1体』の戦時体制ため、捕虜になる事は情報漏洩やスパイを疑われ、投降 ≒ 非国民の時代。といいます。
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.米軍側の心理作戦部隊も「民衆の解放」と『琉球の解放』という「党是』を持っていたようなので、沖縄戦では日本軍よりも米軍の方が人道的な解放者に見えた?やさしく見えた?という体験談や写真も確かに存在します。
https://www2.archives.pref.okinawa.jp/opa/SearchPics.aspx?cont_cd=0000050568↓↑
米軍が民間人を救出する画 (え) も ⇆ 個人的には人道的な心 ⇔ 組織的には心理作戦 (解放政策?) の1種でもあるかもしれません。
.後ほどのユースカー (米軍政府) も琉球政府・琉球大学・琉球銀行など。「沖縄」よりも『琉球』という民族意識を助長させ、日本から琉球の民衆を解放する。という離間政策を云われています。
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沖縄は全国に先駆けて皇民化教育が行われていた。おそらく?当時の沖縄は他府県に比べて立派な日本人 (1等国民) という意識が薄い辺境的な未開地で3等国民 という風な視点を持つ内地人 / 本土人もいたと思います。特にエリート官僚の視点では、当時の沖縄勤務は左遷に近い物があった。という文献も多数見られます。
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その視点は
秘かに重要なポイントで 辺境的な未開地 → 地方に左遷された内務官僚 (知事や警察) は中央政府の指示どおり政治をする風潮があったと思います。
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その文言は ✽ あいまいな定義ようですが、昔の日本では「内地」や『外地』という言葉が使用され ⇆ その「線引き』は人それぞれであったようです。
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… 今でも
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北海道や沖縄県・鹿児島県の1部 (奄美諸島) の人は九州島や四国島・日本島を「内地」と呼んでいます。旧満州から帰国した小説家で作詞家の なかにし礼氏も「内地」という言葉を使用していました。
当時の沖縄を『外地』と見る内地人も確かにいたようです。
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皇土・皇民の内地 > 外地?
1等国民>3等国民 当時の沖縄は「皇土 / 皇民」の未開地?辺境地?そうした空気 (風潮) があったように思います。
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(・・? どうやら?
島田知事の前任である泉知事は沖縄は内地 (皇土) である またはそうあるべき?という風な思想を持ち、辺境的な3等県 〜 1等県に改革しようとする考えを持っていたように思います。
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E6%B3%89%E5%AE%88%E7%B4%80
↓↑泉守紀は山梨県北都留郡大原村(現・大月市)に教育者・泉文作の三男として生まれる。旧制第七高等学校を経て1923年東京帝国大学法学部を卒業。内務省に入省し青森県庁への赴任を皮切りに全国各地の警察畑を歩む。
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1943年7月、北海道庁内政部長を務めていた泉に沖縄県知事の辞令が下り7月26日に赴任した。当初は、従来の知事とは異なり沖縄の文化や歴史を勉強するなど前向きな姿勢で県民に好評であった。しかし、しばらくすると、便所で豚を飼育する(豚便所 / フール)などの日本本土との慣習の違いに苛立つようになり、「沖縄は遅れている」「だから沖縄はダメだ」とこき下ろすようになった。泉は仕事に厳しく飲酒を慎むよう指導したことなどから部下の多くからも反発を買っていた。しだいに孤立した泉は、1944年2月頃には転任願望を密かに持つようになり、大蔵省幹部の実兄に宛てて転任工作を依頼する手紙を出している。
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泉は、地上戦に備えた住民の疎開方針に異論を唱え、さらに軍が求めた慰安所の設置に協力しないなど、軍とも対立を深めていった。
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E6%B3%89%E5%AE%88%E7%B4%80
↓↑… 豚便所 (フール) とは
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生ゴミや野菜くず・人の排泄物で豚を育てる豚舎兼便所こと。
豚便所 (フール / 風留) は戦後もしばらく見られた。
. またまた
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(・・? おそらく?
沖縄が皇民化政策で内地 (皇土) に近づけば近づくほど 沖縄の文明否定に結び付く事もあり
沖縄を外地 〜 内地 (皇土) に改革しようとする泉知事のいらだちもあったように思います。
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戦前の沖縄では、
大本営 (中央軍) と第32軍 (派遣軍) との間にも温度差 ⇆ 軍 (国土防衛) と県 (住民保護) との間にも温度差があったといいます。
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しだいに多方面から沖縄に部隊が続々と配備され、血気盛んな人もおり風紀も乱れるようになった。そのため、軍は県当局に「慰安所」をつくるよう申し入れてきた。泉知事はこれを拒否した。「ここは満州や南方ではない。少なくとも皇土の一部である。皇土の中に、そのような施設をつくることはできない。県はこの件については協力できかねる」と。しかし、軍は各警察署に圧力をかけ、つくらせてしまうのだ。
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軍は、住民に玉砕や退去を求めていたのだ。泉知事は、北部に住居や食糧を確保できるあてはないのでこれにも反対した。
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… 端的にいうと
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泉知事の転任は戦争が怖かったこともあったが ⇔ 軍にも反発していたのもその理由だった。といい、中南部の住民を山深い北部への疎開は危険。その以前から下準備されていた「軍民1体』政策への覚書 (サイン) を拒み。また、軍 (国土防衛) と県 (住民保護) との間にも温度差がある状態での戦争も難しいので、
「逃亡」というよりも ⇆ これから「軍民1体』政策へ強化するため知事『交替』の意味合いもあったようです。
泉知事は戦争が恐かった事のほかに、軍との関係悪化 ⇆ 軍民1体の政治に進展する事を恐れていたようにも感じます。戦後、泉知事は島田知事は自分の身代わりで亡くなってしまった。と、後悔の念を述べていたようです。人が人でなくなるのが戦争。個人の問題だけでは片付けできない何かが隠れているのかもしれません。そしてまた文をまとめようかどうか迷う点です。
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