2020/08/06
昔んかし、
浦添村の伊祖 (イズ / いそ) に『恵祖世主 (ヱスぬユぬヌシ) 』と呼ばれた男が住んでいました。
*エ (え) → ヱ (ぃえ / ゑ) 、祖 (ソ) の沖縄音は祖 (ズ) です。
二人はずっと子供が欲しいと思っていましたが、なかなか子宝に恵まれません。
すると!?
残念ながらそれは、夢でした。
ところが、その夢を見た後、刀自 (とぅじ) は本当に妊娠して待望の子が生まれてきました。そして、その子の名前を『英祖 (イーズ) 』と名付けました。
*1229年、鎌倉時代お話です。
『英祖』が生まれたのが浦添村の『伊祖』で、父親の名前はわかりませんが、回りからは『恵祖世主 (ヱスぬユぬヌシ) 』と呼ばれていました。伊祖 (イズ) の恵祖 (ヱス) に英祖 (イーズ) 、世襲制の時代でありましたから、似たような名前をつけたと思われます。
英祖は天日 (テダ / 太陽)
の夢を見て生まれてきたので『天日子 (てだこ) 』と呼ばれ、すくすくと成長しました。
ー・→
1237年 中山国 (浦添城) の舜天王が亡くなる。
舜天王の子・舜馬順熙 (すんまズンキ) が53歳の高齢にして王位につくも、わずか10年という短期間で終わる。そして、舜馬順熙の子・義本王が誕生しました。しかしその時代は、未曾有 (みぞう) の大飢饉があり、疫病が大流行して『人民半ば失ふ』というありさまでありました。
舜天王統の3代・義本王は、臣下 (しんか) の前で問いました。
『これは、予 (わたし) に徳がなく、天が見放したのである。この上は、王位を『有徳ある者』に譲り、予は退こうぞ。皆 (みな) の者、『有徳ある者』の名前を挙げよ』‥と、臣下に告げました。
⇔ 臣下らは皆、恵祖世主の嫡子・英祖こそ『有徳ある者』と答えました。
そこで、舜天王統の3代目・義本王は、同じく浦添村の伊祖に住んでいた恵祖世主の子 →『英祖』に王位をゆずりました。
義本王の在位は11年、ここに舜天王統は3代で終焉 ⇔ 英祖王統 (5代 / 90年) が開かれる事になりました。
中山国 (後の琉球国) の王統は、
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「琉球史の始まり」は『おとぎ話』のようになっておりますが、そうした『おとぎ話』とも思える伝承の中にも真実が隠れていたり。また、そうした伝承にも『暗号』のような物が含まれているとも云われています。
… 上記の内容は →
東アジア各国に見られる感生伝説という物で、内容は異なるけど、類似お話、建国神話のようになっているようです。
https://ja.m.wikipedia./感生伝説
日本では、
但馬国出石町の「天日矛 (あめノひボコ) 」伝承が『天日子 (てだこ / 太陽の子) 』伝承の内容と似ているように思います。
ー →
天日矛 (あめノひボコ) は新羅の王子 (渡来人) で『金 (カニ / 鉄類) 』に縁があるとも云われています。
新羅は古来より「仏教王国」であると同時に『金 (カニ / 鉄類) 』の産出地として知られ、新羅系の製鉄技術者は日本で『鉄の民』と呼ばれ。また、「新羅 (シルラ / しらぎ) 」となる前は『斯羅 (シル / しろ) 』と国称していたので、日本でも、白国、白山、白髭などが縁ある名前と云われています。
またまた、
新羅の前身は「辰韓 (秦韓) 」で、秦氏と呼ばれた人々の拠点でもありました。
ー?→
(・・? 秦氏いうと?
古文献等では「絹や酒」にまつわる伝承が多く見られますが、数でいうと、秦氏は『金 (カニ / 鉄類) 』に関する『鉄の民』と非常に縁深いという説もあります。
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「絹や酒」の秦氏は山城国
『金 (カニ / 鉄類) 』の秦氏は播磨国に縁があり、播磨国姫路市にある白国社や白山社も『そう』と云われています。
また、新羅の王子・天日矛 (あめノひボコ) 来日以前には、出雲国が『金 (カニ / 鉄類) 』の供給地となっており、旧タイプの秦氏 ⇔ 新タイプの秦氏? そうした伝承も見られるため、秦氏は時間差で来日した渡来人技術者の総称に思われます。
ー →
『金 (カニ / 鉄類) 』に関する秦氏に光 (スポ) ットすると!?
『但馬国・播磨国・出雲国』3国が見えて来ると思います
中国の晋陽は播磨国姫路市、
韓国の晋陽は出雲国松江市、
金城 (慶州) は但馬国出石町。
姉妹都市になっています。
… 端的にいうと? →
その昔、中国大陸に晋 (シン) という国がありました。後ほど晋は、領土を魏氏の国・趙氏の国・韓氏の国 → 3国に分裂してしまいます。
https://ja.m.wikipedia./晋陽の戦い
晋 (シン) 国は「魏・趙・韓」という『3国』に分裂。
後ほど →
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後ほど「秦」は『漢』に滅ぼされます。
… そのとき →
秦の1部人々は、朝鮮半島の南 → 辰韓や弁韓・倭国に亡命。中でも、辰韓 (別名・秦韓) や弁韓に秦の人々が多く移り住んだ。云われています。
「辰韓 (秦韓) 」は『新羅』の前身
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古代日本には、
「政治」の権力社と『祭祀 (経済) 』の権力社 2社あり、主に漢 (アヤ) 氏や百済系漢人は「政治」⇔ 秦 (ハタ) 氏や新羅系秦人が『祭祀 (経済) 』を担当。漢氏 (政治族) と秦氏 (祭祀族) は同時期に日本に渡来しています。
秦氏と漢氏が渡来した時期 (5世紀末) の朝鮮半島には伽耶 (カヤ / 加羅) という小国家群があり、
(・・? どうやら?
ー;→
(・・; 思わぬ展開に進んでしまいます;
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ー 前回のブログ ー
1394年 ← 一休さんが生まれた年。
南山国の王子・承察度 (ウフさとぅ) は、朝鮮半島の晋陽に亡命しました。
https://www.asaobo.jp/blog/1734
高麗 (こうらい) 王朝は新羅王朝の分家で、新羅の首都は『金城 (クムスン / 慶州) 』で東側にあったといいます。
李朝の首都・漢城 (ソウル) は西側にあったけど ⇔ 李朝の時代に承察度 (ウフさとぅ) は東側の晋陽 (慶尚道) に亡命していた事も気になるところです。
承察度 (ウフさとぅ) が亡命した時代、
朝鮮半島は『王氏・高麗』~「李氏・朝鮮」に王統交替 (政権交代) ばかりの時代です。
*わずか2年前に王朝交替
晋陽に亡命した承察度 (ウフさとぅ) は、その地で手厚く『優遇』されていました。晋陽は高麗時代は大使館? ような国境の町になっていたようです。
また朝鮮半島では、
『王氏・高麗』~「李氏・朝鮮」に王統交替 (政権交代) すると、一時期、王氏はいなくなったという。
『王氏・高麗』は『仏教』⇔「李氏・朝鮮」は「儒教」に重きを置く王朝であったようです。
高麗王朝の前身・新羅王朝は、
『金 (カニ / 鉄類) 』の産出地と同時に
「仏教王国」として知られていました。
新羅の首都は金城 (クムスン / 慶州) !?
金城 (クムスン / 慶州) と「天日矛 (あめノひボコ) 」伝承がある但馬国出石町が姉妹都市になっている事が、とても気になるところです。
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