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第1回 茂知附と望月

2025年4月1日

RBCの琉球放送で テレビ 琉球歴史ドラマ・茂知附 (もちづき) が上映されていました。

https://www.asaobo.jp/news/3544

歴史ドラマでは テレビ 茂知附按司 (もちづきアジ) は、倭寇 (海賊) 出身の悪者で民衆を苦しめる悪政を敷いていた。と紹介。

ー(・・? ー?→

その日エイプリルフールでありましたので、まこと田舎お話ですが、

勝連城主の茂知附按司 (もちづきアジ) は実在していた事は本当お話です。


ご迷惑をおかけします 按司 (アジ / あんじ) とは ご迷惑をおかけします

中国風の呼称で、日本史に登場する三浦 (ウイリアム・アダムス) のと同じで『按 (おさ / 長) 』を意味。

✽按針 = 航海士 / 船長


と同時に てんびん座 倭寇 (海賊) 出身の茂知附按司 (もちづきアジが勝連城の按 (おさ / 長) にまで登り詰めていた事にもなります。


ー(・・? ー?


茂知附 (もちづき) が登場する15世紀琉球史基点で てんびん座 その15世紀イスラム教国のマラッカ王国が馬来 (マレイ) 半島に登場する時代 長音記号2マラッカ王国は東西文明を結び 温泉 その後の大交易時代の源泉にもなっています。


歴史はデジャヴすると云われていますが、日本史基点7世紀で てんびん座 その7世紀イスラム教が誕生した時代。← その時は望月 (もちづき) が登場します。


茂知附 (もちづき) と 望月 (もちづき) は てんびん座 駒人 (コマぴと) と 月星信仰に縁ある人物。

端的にいうと、東アジアの政治は儒教儒教農本主義  イスラム教重商主義の政治を特徴。


ー?→

(・・? 近代化というと?
西洋化 (近代化) 』?  と連想する人も多くいると思いますが ⇔ 意外にも江戸時代 (近世) と 明治時代 (近代) の政治は連続しており 自転車 江戸時代も明治時代も儒教政治をしていた (いる?) といいます。

 

ー(・・? ー?→


天主教徒のマテオ・リッチも儒教的な服装をするほど →

東アジアでは儒教な政治王制に多大な影響を与えていた (いる?) ようです。


天主教徒のマテオ・リッチは、

『東西文明の架け橋に』と語られていますが ⇔ その下地 / 基盤は、馬来 (マレイ) 半島のイスラム教国・マラッカ王国のムスリム商人にあったと云われています。

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日本史基点7世紀イスラム教が誕生した時代 てんびん座 琉球史基点15世紀でマラッカ王国 (イスラム教国) が登場する時代 目 儒教農本政治イスラム教重商政治デジャヴが見られます 目

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日本史基点7世紀望月 (もちづき) てんびん座 琉球史基点15世紀茂知附 (もちづき) がデジャヴ 目 茂知附 (もちづき) と 望月 (もちづき) は てんびん座 駒人 (コマぴと) と 月星信仰に縁ある人物 夜の街 月星信仰道教仏教になります。

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儒教道教仏教に付随して7世紀の飛鳥時代に来日。日本の政治 (律令制) も唐朝 (仏教王国) の制度を模範としているので、仏教 (儒教道教を見る事は重要と云われています。

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内容は複雑していますが、

7世紀商業を重視するイスラム教が誕生した時代で、これまで商業活動していたペルシア系の胡人 (駒人の商人) も東方に移動する時代。日本でも蘇我氏 〜 藤原氏に政権交代し → 倭国 〜 日本に。大王 (オオキミ / 大君) 〜 天皇へ。日本書紀の編纂や律令制など。政治体制が整備される時代になっています。




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その昔、

夜の街 不動の星・北極星を目印として西洋と東洋の文明ロード(絹の道)を「遊牧 / 行き来」する商人 (駒人) がおり 流れ星 古くはペルシア系遊牧民から派生した人々が多くいたと云われています。


そうした商人 (駒人) たちは、「星」『石』を結び付け  →「星信仰 ≒ 石信仰』にも進展して行き 自転車 東へ向かった商人 ≒ 駒人 (コマピト) たちが持つ「星信仰 ≒ 石信仰』が来日します。そのペルシア系遊牧民 (駒人 / 商人) たちは仏教徒が多く、彼らが仏教の中に古代中国宗教・道教を取り入れて → 西域 → 中国 → 朝鮮 → 日本へと「月星信仰』を普及させた。という お話です。
中国 → 朝鮮 → 日本といった東アジアに仏教を普及させたのは、ペルシア系遊牧民 ≒ 駒人 (コマピト) に由来する説もあります。

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6世紀・日本へ仏教を公式に持ち込んだのは蘇我氏で。その拠点・飛鳥 (あすか / 明日香) には、いくつもの謎の石造物があるといい。その中にペルシア人に似た石人像も登場します。胡人 ≒ ペルシア系中国人 (貿易商人 ≒ 外向官) と思われ。蓬莱山・仙人・不老不死と言葉は「道教用語」と事はよく知られています。仏教 (儒教道教はガンダーラ地方から日本にやって来ました。その西方にはクシャーナ朝という仏教王国があり、その影響も受けていたようです。

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(・・? 仏教はインド由来?はてなマーク
思う方もいるかもしれませんが、仏教には南伝仏教 (上座部仏教) と 伝仏教 (大乗仏教) とあり、
どちらかというと、南伝仏教はインド的 ⇔ 北伝仏教はペルシア的であったとも云われています。

北伝仏教 中国 (東方) に行く前に ← いったん西方 ← ペルシア方面のガンダーラ地方 (現・ペシャワール地方) に行き → 西域と呼ばれた地方に行き → 中国 (東方) に伝わっていました。


ひらめき電球 6世紀・日本へ仏教を公式に持ち込んだ蘇我氏の祖先は月氏の子孫・大月氏と云われています。月氏は大月氏 (ペルシア系) と小月氏 (トルコ・チベット系) に別れ、大月氏は中央アジアのバクトリア地方に大月氏国を建国。

大月氏が大月氏国を建国した中央アジアのバクトリア地方は、シルクロードの天山南路の入口近くにあり、砂漠のオアシスと知られていたようです。

後ほど、大月氏国から分裂したクシャーナ朝ガンダーラ地方 (現・ペシャワール地方) に都を置いたと云われています。

インド化したペルシア系民族 (大月氏) が建てた国・クシャーナ朝は、同じくペルシア系民族の国・ササン朝に亡ぼされ吸収 自転車 7世紀半ばに入ると;
ササン朝 (ペルシア帝国) はイスラム教国に亡ぼされ吸収されて行きます →

ササン朝 (ペルシア帝国) は、
ゾロアスター教 (与党) > マニ教 (野党) 』という関係に。
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イスラム教はマニ教 (世界宗教) をお手本に作られた?とも云われ、似た部分があったようです。

内容は複雑していますが、
大月氏国 (ペルシア系民族) から分裂した仏教王国・クシャーナ朝 (インド化したペルシア系民族) は商業王国で。クシャーナ朝ササン朝に てんびん座 ササン朝イスラム教国に亡ぼされるのですが てんびん座 歴史の勝者敗者の文明を『吸収』して拡大 自転車 商業王国クシャーナ朝の名残は回教徒と呼ばれたイスラム教のムスリム商人たちに継承されて行きます →
大月氏国 (商業王国) が拠点としていたシルクロードの天山南路は 自転車 後ほど『回紇 (ウイグル / 回鶻) 人』の拠点となり、その回紇 (ウイグル) 人は民族的にはテュルク系 てんびん座 文明的にはペルシア系の風習を継承。

ご迷惑をおかけします 回紇 (ウイグル) は ご迷惑をおかけします
ペルシア由来の世界宗教・マニ教を国教とする商業王国で 自転車 後ほどイスラム化 → 中国では「イスラム教は回教 / イスラム教徒を回教徒」と呼ぶのはその回紇 (ウイグル) 人を由来とし、回教徒の商人が多くいたようです。

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(・・? 時代も場所も民族も?
ダイブ飛んでいますが 長音記号2 歴史は何度も 自転車 繰返し栗返し → デジャブする事を考えており。その名残は中国にも日本にも多大な影響を与えていた。歴史の勝者敗者の文明を『吸収』して拡大する政治は、日本でも存在していたと思います。


ご迷惑をおかけします7世紀は ご迷惑をおかけします

蘇我氏 〜 藤原氏に政権交代していますが、

歴史の勝者政治 (儒教てんびん座 敗者祭祀 (道教) という仕組みが存在し、政治藤原氏 てんびん座 祭祀葛城族 (賀茂氏など) が担当していたと云われています。


古代 〜 江戸時代まで、
公家武家商業を行うは「恥づべき事」という思想がありましたので、宗教関係者が名目上は祭祀とする商業が行われていました。

祭祀  商業


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(・・? 気になる お話?
信濃国には『葛城族役小角 (えんのおずの / 本名は賀茂氏) が蕎麦 (ソバ) を普及させた』との古文献があり。当地は蕎麦の里であると同時に てんびん座 望月の里にもなっていたようです。
望月の牧は馬の飼育に関する里に。

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(・・? たまたま お話?
蕎麦 (ソバ) の発祥地は中国の雲南省と云われています。


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茂知附 (もちづき) が登場する15世紀琉球史基点で てんびん座 その15世紀イスラム教国のマラッカ王国が馬来 (マレイ) 半島に登場する時代 長音記号2マラッカ王国は東西文明を結び 温泉 その後の大交易時代の源泉にもなっています。

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当時の中国は、元朝  明朝に政権交代していましたが、まだまだ 元朝の残党 / 余力 が残る時代で。琉球は明朝に対して、主に『硫黄』を輸出していました。←硫黄は 元朝の残党 / 余力 に対する交易品でありました。

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ハムスターまたまた 足あと

中国の雲南省元朝の時代に商業活動を行っていた回教徒 (ムスリム商人) たちの最期の拠点になっていたようです。



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馬来 (マレイ) を拠点としていたのは、
ムスリム商人 → ポルトガル商人 → オランダ商人 →

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(・・; 詳しくは解りませんが;
馬来 (マレイ) には馬三保が来ていました。

回教徒 (イスラム教徒) の馬三保ムスリム商人 (回教徒の商人) とともに中国の雲南省からマレイに来島。

鄭和(てい わ、1371年 – 1434年)は、
中国は明代の武将。12歳の時に永楽帝宦官 (かんがん) として仕えた。軍功をあげて重用され、1405年から1433年までの南海への7度の大航海の指揮を委ねられた。鄭和の船団は東南アジア、インド、セイロン島からアラビア半島、アフリカにまで航海し、最も遠い地点ではアフリカ東海岸のマリンディまで到達した。


生い立ち
馬三保 (後の鄭和) は、1371年に馬哈只 (マハッジ) の子として雲南省でムスリム (イスラム教徒) として生まれた。姓の「」は預言者ホメット (ムハンマド) の子孫 (サイイド) であることを示し、名の「哈只(ハッジ)」はイスラム教の聖地メッカへの巡礼者に与えられる尊称ハッジに由来する。


宦官・鄭和
鄭和が生まれた1371年には、雲南はいまだ元王朝系の梁王国の支配下に置かれていたものの、すでに中国本土は朱元璋の建てた明の支配下にあり、元の勢力は雲南など数か所で余喘を保っているのみとなっていた。1381年、鄭和が10歳の時に明は雲南攻略の軍を起こし、翌1382年に雲南は滅亡。鄭和は捕らえられて去勢され、1383年ごろに宦官として当時燕王だった朱棣(のちの永楽帝)に献上された。

朱元璋の死後、1399年から1402年にかけての靖難の役において馬三保は功績を挙げ、帝位を奪取した永楽帝より宦官の最高職である太監に任じられた。さらに1404年には鄭の姓を下賜され、馬三保は鄭和と名乗るようになった。

馬三保 (後の鄭和) の馬 () 姓は、イスラム教の創始者・ホメット (ムハンマド) のを由来? とも。


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馬来 (マレー) 半島の南西部にはアユタヤ朝 (タイ) に属するマラッカ朝があったといいます。

 ー マラッカ王国 ー
14世紀末ころマレー半島西南部に建国されたマラッカ王国は、当時タイのアユタヤ王国に従属していたが、15世紀前半に鄭和 (馬三保) の南海遠征が行われるとその拠点となり、15世紀半ばには国王がイスラーム教へ改宗してイスラーム世界との結びつきを強めていった。その後マラッカ王国はアユタヤ王国から独立し、明への朝貢貿易を継続しながら、インド洋と東南アジアとの中継地点である地の利を活かし、15世紀中頃以降16世紀初期にポルトガルの進攻を受けてを受けて滅亡するまでの間、ジャワのマジャパヒト公国にかわって東南アジアにおける最大の貿易拠点となった。https://sekainorekisi.com/glossary/%E9%84%AD%E5%92%8C/

ー?→

1405年には明の永楽帝より命を受け、遠くアフリカ大陸まで大遠征を行った海軍大将・鄭和の艦隊も、マラッカに初寄港している。マラッカ王朝は朝貢貿易を通じ明国との同盟を強固し、北の大国シャム、南のサムドラ・パサイ王国からの脅威を牽制していた。マラッカ王国は1414年頃イスラム化し、香辛料貿易における重要な東西中継港として繁栄を極めた。


後ほど →
ポルトガル領マラッカ → オランダ領マラッカに。

イエズス会のフランシスコ・ザビエルはここから東アジア布教に出発している。



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明の時代、
内政に重きを置く 儒家勢力 と外向に重きを置く 宦官勢力 の2つ勢力があり、明朝の3代・永楽帝は、宦官勢力 の協力を得て帝位についたので、外向の政治家 側に重きを置いていました。中でも、鄭和 (馬三保) は 宦官勢力 の重臣として活躍し、近年では、鄭和 (馬三保) の艦隊が、初めて世界一周をしていた。と指摘されています。


近年英国の退役海軍将校で歴史学者でもあるガビン・メンジースが「スペインのマゼラン艦隊」よりも100年先に『鄭和 (ていわ) の艦隊』が「世界一周」をしていた。と指摘しているほどです。

明朝の3代・永楽帝が亡くなると、外向に重きを置く 宦官勢力 の勢いは衰退し ⇔ 内政に重きを置く 儒家勢力 の勢いが増して行き、鄭和 (ていわ) の艦隊が作った『航海地図』などが焼かれてしまい。その『航海地図』は、中国大陸では姿を消しましたが、E欧諸国には残っていました。

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ー・→

明代の1557年には、
中国の南蛮地域 / 広東省のマカオのみ、ポルトガル商人が私貿易を行う事を許可しました。

ー(・・? ー?→

内容は複雑していますが;
ジャガイモの語源は、17世紀初めにジャワ島のジャガトラ (現・ジャカルタ) から伝来した「ジャガトライモ」が転訛して『ジャガイモ』になった説? 中国語の馬鈴薯 (マーリンシュー) が馬鈴薯 (ばれいしょ) ? 

馬来 (マレー) の芋」が馬鈴薯 (ばれいしょ) ? という説など。諸説あるようです。

ー?→

ジャワ島には主にジャワ人が住んでいたけど、マレー人ほか、複数の民族・複数の宗教が混合するイスラム教国でもあったようです。



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19世紀は西欧列強による世界の植民地化の時代、20世紀は2度にわたる世界大戦による西欧の破産とその破産管財人である米ソによる残務処理の時代であった。21世紀は西欧の覇権の下にあったロシア文明中国文明・インド文明・イスラム文明の再興による文明の再編の時代となる。シルクロード経済圏の覇者を目指す中国の一帯一路構想・ロシアのウクライナ内戦・クリミア危機への介入は、大陸国家の中国とロシアが文明再編の主役である事を示している。
が ⇔ 実際問題、蔭の主役は古代も近代も現代もイスラーム世界である。イスラームは、西欧の世界支配の枠組「領域国民国家システム」自体を揺るがす可能性を秘めているのである。 

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ご迷惑をおかけします 上記本の説文に ご迷惑をおかけします

21世紀は西欧の覇権の下にあったロシア文明中国文明・インド文明・イスラム文明の再興による文明の再編の時代となる。← とありましたが、東南アジアは中国文明・インド文明・イスラム文明・キリスト教も?の交差点で てんびん座 マラッカはインドのゴアと中国のマカオの中継点になっていたので、あまり目立たないけど、秘かに15世紀のマラッカを舞台とする時代は非常に重要に思います。

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(・・? ひいては?

15世紀に登場する勝連城主の茂知附 (もちづき) について調べる事も重要に思えて来ました。




竹。。




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