2020/07/30
今回のブログは、
とても狭い範囲 (マイナー) の内容になっており、糸満市外の人々が見たら、意味不明の内容になっています。
… けれども →
今回のキーワードは『金 (カニ / 鉄類) 』になっております。金 (カニ / 鉄類) に関する歴史はとても重要なのですが、日本でも琉球でも歴史の表舞台には出て来ない物です。
*水面下の歴史
また沖縄県は、金 (カニ / 鉄類) に関する資源が乏しいのですが、そうした資源は何処ドコと結び付いていたのか 深読みすると 思いもよらない世界に到着すると思います。
いつの日か 思いもよらない世界と結び付けたく思いますが、今回はマニアックで意味不明な長文駄文ブログにして見ました。
ー↓─━─扉─━─↓ー
1469 (成化5) 年4月22日 琉球国は首里城で「金丸 (かにまる) 革命」がぼっ発した。
クーデター首謀者の名前は、
内間金丸(かにまる)。 https://kotobank.jp/word/内間金丸
琉球は7代・尚徳 王の時代 →
29歳の尚徳 王は亡くなる。そして、54歳の内間金丸(かにまる)が琉球の王になりました。
金丸の「丸」→『円 (まる) 』→
内間金丸(かにまる)は尚円 王として即位します。
https://ja.m.wikipedia./尚円 王
ー?→
当時の朝貢国・明 (みん) へは、 54歳の内間金丸が7代・尚徳 王 (29歳) の子 (8代・尚円 王) として文書作成が行われていたようです。
(*_* ; 本当は;親子でも血縁関係もないので、琉球史では、「第一尚氏王統」と『第二尚氏王統』とに分別記載。
ー―…―…→→
7代・尚徳 王は3山国に分別していた琉球を統一した尚巴志の孫。
https://ja.m.wikipedia./尚徳 王
尚巴志は、北山国 (今帰仁城) を亡ぼした後、今帰仁城 (なきじんグスク) に北山監守という役職を設置し、島の北方地域の監視 / 統治を行っていました。
*首里城 (本店) ⇔ 今帰仁城 (支店)
北山監守は、
尚巴志が琉球を統一後、旧・北山国地域の監視及び統治を目的として設けた琉球王国の官職。
https://ja.m.wikipedia./北山監守
そのとき、今帰仁城で北山監守を務めていた具志頭 (ぐしちゃん) 一家は、首里城 (本店) が落城した後、今度は今帰仁城 (支店) にも危険がせまる事を察知し、家族がひとかたまりで逃げるよりも、匹散して一人でも生き延びれば家系は廃絶しない、名前を変え、逃げ場を変え、東西南北、散らばる事を決意しました。
琉球の史書では、
初代・北山監守は、尚巴志の次男・尚忠 (具志頭王子) → 尚巴志が亡くなると、尚忠が琉球国王となり、2代・北山監守は三男・具志頭按司、と記載。
ー(・・? ー?→
気になるお話、
内間金丸(かにまる)は、第一尚氏王統の祖・尚巴志に亡ぼされた勢力の手を借りて、用意周到にクーデターを達成したとも云われています。
尚巴志に亡ぼされた勢力とは、
察度王統と「その仲間」たち。
*ごさまる、あまわり、奥間家、金満按司 (カニマンあじ) の門中などです。
ー;→
(・・; 実はココ;糸満市も;
尚巴志を祖とする第一尚氏王統 (7代・64年) の滅亡に加担しているように思います。
南山城 (糸満市) の王統は尚巴志に亡ぼされていました。
内間金丸(かにまる)は、 そうした敗者の子孫たちを活用して、第一尚氏王統を滅亡に導いた。という お話です。
ー(・・? ー?→
まづ、
… 端的にいうと →
糸満は庶子の里、南山城 (糸満市) の王統は、尚巴志に亡ぼされた中山国 (察度王統) と庶子の関係にあった云われています。
*中山国と南山国は血縁関係
琉球の史書では、
中山国・察度 (さっと) 王の長男は武寧 (ぶねい) と記載されています。 https://ja.m.wikipedia./武寧
けれども、
言い伝えによると、
崎山里主の母と姉は、辻村の迎賓館で接待のため冊封使の夜の相手をさせられ、母と姉の無念を感じ仏門の道に進んだと云われています。
崎山里主の母と姉は一生 辻村で暮らし、亡くなったあと辻村 (今の那覇市辻) に「辻遊郭開祖之墓」が建てられ、今でも『水商売の神』として崇められ、旧暦の廿日 (二十日) 正月の「ジュリ馬行事」の際に拝まれています。
察度 王の本当の長男・崎山里主は、首里市 (今は那覇市) の崎山町に住んでいました。
ー 首里の金城町は鬼餅伝説の地 ー
https://asakobonobulogu.ti-da.net/e7035450.html
古くから鬼餅 (ムーチー) 伝説が云われてた地域は「首里市の金城と西原町の嘉手苅」、ともに『金(カニ ≒ 鉄類)』に縁ある地名と云われています。
むかし、王府・首里の北原 (にしばる / 西原) と そのまた北の中城村は『鉄の町』になっていました。
また、西原町 嘉手苅 (カデカル) の「嘉手」は、台所の扉 ≒ 勝手口の『勝手』と同じで、勝手は鍛冶が訛化した? 。と説があります。
*勝手口 ≒ 鍛冶屋の扉?
嘉手苅は火の台所 →『火処』と関連しているかもしれません。
実は、西原町の嘉手苅には内間金丸(かにまる)が住んでいました。
後ほど出世した内間金丸(かにまる)は、浮島 (那覇の港) にあった御物城 (うむぬグスク) という海外交易品を管理する海城 / 倉庫の担当者・御物城御鎖側職 (うむぬグスクぬうさすばすく) に任命されました。
「御物城の御鎖側職」 という役職は、御物城で海外交易品の管理と行政を担当する。今でいう大蔵省 (財務省) 、通産省、外務省など‥ 諸大臣を兼ねた経済、貿易、通訳に関する要職でした。 内間金丸 (かにまる) 、45歳の時であった。https://asakobonobulogu.ti-da.net/e7081476.html
ー?ー!→
(・・?実は!もと鉄の民・内間金丸 (カニまる) が働いていた御物城 (うむぬグスク) の すぐ近くに『金秀 (製鉄工場) 』の本社があります。
西原町から生まれた 「金秀グループ (もとは製鉄工場) 」 など‥ 金満按司 (カニマンあじ / 製鉄の先生) とも縁あるよう思います。
ー―…―…→→
察度 (さっと) 王は子だくさん、庶子 (隠し子) が多数いたようです。
(・・; また;察度 王の父親・奥間大親 (うくまウフヤ) にも;庶子 (再婚子) がいました。
察度 王の異母弟・泰期 (たいき) は、明の史書にも記載されています。https://ryukyushimpo.jp/okinawa-dic/prentry-41942.html
金満按司 (カニマンあじ) の門中は、察度 (さっと) 王と深縁があります。
金満按司 (カニマンあじ) とは、金属 (鉄類) を満 (いっぱい) 持つ主 (あるじ / 按司) 。という意味で、平たく言うと「鉄の民 / 製鉄者」一門を意味しています。https://asakobonobulogu.ti-da.net/e7573520.html
… 沖縄音では →
大工は製工 (せーく) 、鉄の大工は金製工 (カンぜーく) 、鍛冶屋 (カンジャー) など。音します。
糸満市の金城 (かねグスク / 兼城) →
南風原町の金城 (かねグスク / 兼城) →
↑すべて↑ 察度 (さっと) 王と その父親・奥間大親 (うくまウフヤ) 金満按司 (カニマンあじ) たちと縁ある地名と云われています。
察度 (さっと) 王と その父親・奥間大親 (うくまウフヤ) は子だくさん 崎山里主ほかにも各地に庶子がいたといいます。
糸満市の入口は阿波根 (あはごん) →
… 今日では →
地名になっているため「兼城 (かねグスク) グスク」→『城 (グスク) グスク』と重複していますが、本来は金城 (かねグスク) と 奥間城 (うくまグスク) と呼ばれていたようです。
金城 (かねグスク / 兼城) と 奥間城 (うくまグスク) 2城は、察度 (さっと) 王と その父親・奥間大親 (うくまウフヤ) 、金満按司 (カニマンあじ) たちと縁あるグスクと云われています。
金満按司 (カニマンあじ) の祖・察度 (さっと) 王の母親は天女で、父親は奥間大親 (うくまウフヤ) 3者とも再婚したり、各地に庶子がいたと云われています。
ー →
「御物城 と 硫黄城』この2城は 察度 (さっと) 王の時代、明 (みん) との朝貢貿易センターとして整備されていました。
ー?→
(・・! なぜか?!
察度 (さっと) 王の母親は天女でした。
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