こんな1文を載せて見ました。
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中国島 → 朝鮮半島 → 日本列島 → 3島では、
『霊に始まり → 礼に終わる」という政治体制を何度も繰り返している。
* 霊は道教的 ⇔ 礼は儒教的。
―;→
(・・; 必ずしも;そうではなく;
礼からスタートしたケースもあったようです。
* 漢王朝や李氏朝鮮など。
李氏朝鮮では、
成立時に礼的な儒学者たちの協力を得て、高麗王朝 ~ 李氏朝鮮 (李朝) に王朝交替した経緯があったので、李朝は儒教を国教に → 礼からスタートしていました。
高麗朝 (仏教王朝) ~ 李王朝 (儒教王朝) へ。
―(・・? ―?→
厳密にいうと、
「礼」の中にも『霊』があり ⇔『霊』の中にも「礼」がある。という表現が正しく、礼的な物と霊的な物は切っても切り離せない関係にあったといいます。
例えば、
近代の中国では、毛沢東の文化大革命時代にキリスト教やイスラム教・ユダヤ教とともに、中国発祥の宗教である儒教と道教も国家の監視下に置かれ。また、礼的・霊的な民間信仰も封印されているようです。
けれども、
「礼的 (儒教的) な物」と『霊的 (道教的) な物』を完全に封印すると!? 中国人が中国人ではなくなる!? とも云われています。
それほど、
「礼的な物」と『霊的な物』は身に染みた風習で、切っても切り離せない関係に思います。
それは中国に限った事ではなく、近隣諸国の韓国や日本に置いても見られました。
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こんな1文も載せて見ました。
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3代メと4代メの間で『霊~礼」への転換期があった。
李朝の時代 →
中国は明代、日本は室町時代。
明朝の3代・永楽帝
室町幕府の3代・足利義満。← ともに『
霊』が高まった同年代の人物で、中国も日本も → 4代メ ~ 日に日に「
礼」に傾いて行きます →
明朝の3代・永楽帝の時代、
礼的な儒家勢力と
霊的な宦官勢力 2つ政治派閥が拮抗し、永楽帝は
宦官勢力に支えられていたようです。
* 宦官は後宮の后妃たちと結び付き。
… 端的にいうと → 儒家勢力は「内政」⇔ 宦官勢力は『外交』に重き。
* 内政は礼的 ⇔ 外交は霊的、
* 礼は男性的 ⇔ 霊は女性的。
室町幕府の3代将軍・足利義満も霊的な『外交』に力を入れていました。
* 日明貿易など。
足利義満は絢爛豪華な金閣寺を建立していますが、その『絢爛豪華』という言葉は『霊的 (道教的) 』な音色です。
* 絢爛豪華 → 現世利益 ← 霊的、
⇔
質素倹約 ← 礼的。
―・→
絢爛豪華な金閣寺 (北山文化) は霊的、
⇔
侘しく寂し銀閣寺 (東山文化) は礼的。
見えます。
内容は飛んでいますが、
中国や日本では3代メと4代メの間で『霊~礼」への転換期がありましたが ⇔ 反対に朝鮮では3代メと4代メの間に「礼~霊』への転換期があったのでは? 考えて見ました。
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李氏朝鮮では、
成立時に儒学者たちの協力があった事も手伝い、儒教を国教にするようになると、前王朝の高麗時代に活躍していた霊的な仏教寺院は次々と都を離れ → 山や海へと避難したという。
* 高麗末期、仏教側にも権力との癒着体制など。腐敗問題もあったようですが、李朝初期 ~ 仏教弾圧が度々あったといいます。
そうした「礼的体制」からスタートした李氏朝鮮に置いても、4代メの時代に『霊的緩和』が見られました。
* 礼~霊へ
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朝鮮4代王・世宗 (セジョン)
☆生没年
1397年〜1450年
☆在位期間
1418年〜1450年
4代王・世宗 (セジョン) の時代に霊的な『ハングル文字』が作られていると云われています。
昔の
儒学者たちは、
漢字以外の文字は蛮族が使用する文字。という発想をする人が多数いたといいます。
漢字の漢は、
儒教を国教にしていた漢王朝の漢を由来する物で、漢字という文字は礼的文字でありました。
* 漢字 ≒ 礼的文字
中国では、
漢字ではないゾグド文字・西夏文字・モンゴル文字・満州文字など。
日本では、
カタカナ・ひらがな・など。
昔の儒学者たちは、極力、漢字以外の文字を敬遠していたといいます。
… 日本でも
→ 漢字は「男 / 礼的」⇔ ひらがな『女 / 霊的』
といった発想をする時代があったという。
「礼的体制」からスタートした李朝の4代王・世宗 (セジョン) の時代に作られた『ハングル文字』は画期的な『霊的緩和』と言えます。
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朝鮮7代王・世祖 (セジョ)
☆生没年
1417年〜1468年
☆在位期間
1455年〜1468年
7代王・世祖 (セジョ) は4代王・世宗 (セジョン) の次男。
詳しくは解りませんが、
7代王・
世祖 (セジョ) の王位への座は 儒教視点では引っ掛かる部分が見られた そのため、7代王・
世祖 (セジョ) は山や海に避難していた仏教勢力に支えられ、晩年は霊的な仏教に帰依していた? とも云われています。
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1502年 / 中国は明代 / 日本は室町時代、
天女橋は、沖縄県の首里城北側の円鑑池に架かる石造アーチ橋で、朝鮮から贈られた「方冊蔵経」(高麗版大蔵経)を納めるため、1502年、琉球は第二尚氏王統の3代・尚真王の時代、円鑑池の中島に経堂が造られた。
1467年に朝鮮から贈られた「方冊蔵経」(高麗版大蔵経)を納める経堂 (弁財天堂) がありました。
1467年の朝鮮国王は7代王・世祖 (セジョ) ← 晩年は仏教に帰依した? 云われています。
朝鮮7代王・世祖 (セジョ)
☆生没年
1417年〜1468年
☆在位期間
1455年〜1468年
また、
1467年の日本は 応仁の乱 が始まった年で、この
応仁の乱を端緒に
「本京都」は衰退し ⇔
『西の京』の大内文化が花開く時代へと進んで行きます →
実は琉球でも !? 3代メと4代メの間で『霊~礼」への転換期がありました。
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琉球の都・首里城、
首里城の正殿前に御庭 (うなー) 、その後ろに「御内原 (うーちばる) 」と呼ばれる後宮がありました。
前の
御庭では
「政治」 ⇔ 後ろ
御内原では
『祭祀』が行われていました。
*御庭は礼的 / 男性的 ⇔ 御内原は霊的 / 女性的
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琉球では、
礼 (儒教色) よりも < 霊 (道教色) が上回る事がありました。
そうした
「後ろの正面』仕組みが強化されたのは 第2尚氏王統の3代・
尚真 王の時代と云われています。
ー
→
ポイントは
礼的 (儒教的) ではなく、
霊的 (道教的) な中央集権体制が強化された事です。
*儒教 (男性) 的 < 道教 (女性) 的
ー?→
その後、年老いた3代・
尚真 王は側室の思戸金 (うみとがに / 華后) との間に五男・
尚清 (せい) が生まれました。
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その後、ある事件が起きました。
その事件は冤罪で、事件の背後には3代・尚真 王の母后・宇喜也嘉 (おぎやか) と結び付いた思戸金 (華后) が、五男・尚清 (せい) を国王とするため、御内原 (後宮) の神女体制を活用した謀略と云われています。
そして、
本当は4代・王様になる予定であった長男・尚維衡は廃嫡され ⇔ 五男・尚清 (せい) が4代・国王の座に付くキッカケとなりました。
―(・・; ―;→
ところが;側室の子 → 尚清 (せい) が4代国王として即位すると;明朝 (中国) との朝貢貿易が止まってしまったという。
明朝 (中国) は『霊 (道教) の国』であると同時に 「礼 (儒教) の国」でもありました。
明朝 (中国) は琉球には「礼」が不足している 感じたようです。
尚清 (せい) の王位への座は 儒教視点では引っ掛かる部分が見られた そのため、不信感を抱いたため? とも云われています。
儒教視点では、長幼の序 → 子は親を、弟は兄を、側室は正室を、など。教えに反していたようです。
… 一説によると
→ 霊的な事件後、五男・
尚清 (せい) が4代め国王になった事と『
守礼門』を創建した事は、
軌を一にしていると云われています。
上綾門 (通称・
守礼門) は、第二尚氏の4代・
尚清 王のの時代 (1527~55) に創建。
4代・
尚清 王の時代に「
待賢門」という扁額がかけられ、6代・尚永 王 (1573~88) 時に『
守礼之邦』の扁額が作られ、後ほど『
守礼門』と呼ばれるようになります。
*待賢門は「賢人を待つ門」を意味していたようです。
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琉球は賢人 ← 礼的関係者を待つ、
琉球は守礼 ← 礼節を重んじる国。
3代メと4代メの間で『
霊~
礼」への転換期があったように思います。
―(・・! ―?!→
ところで?!
* 女人政治の時代?
―?→
―→
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