2022/12/01
気になる象 →
印象的・抽象画・気象庁・対象年齢・象徴・形象・現象・画像・図像・銅像・など。
(・・? どうして象なのか?
調べて見ると、古代中国に殷 (いん) という占い王国があり、甲骨文字を用いて卜占をしていた。やがて、動物の「姿 / 形」から作った絵文字 → 象形文字に進展。動物の中で目立つのは象なので
絵文字 (象形文字) の第1号が象に。その象形文字は象の形から作った絵文字で、姿・形・様子を意味するようです。

気象 → 天気の形や様子。
現象 → 形になって現れる様子。
印象 → 心に印した形状?
など。
甲骨文字は占文字、
象形文字は絵文字。
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室町時代~江戸時代ころ、
なぜか? 象が遠く国から何度か来日しているのですが
その詳細情報を探せませんでした。おそらく? 室町時代と江戸時代の政治体制は仏教体制を敷いていた事も関連しているように思います。

仏教国では、白象は普賢菩薩の乗り物と知られ神聖な動物になっており。
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古い文献では、
象が来日した1408年は、
室町幕府の4代将軍・足利義持の時代でありましたが、その時代の政治は義持の父親で前将軍であった足利義満が行っていたので、実質的? 象は義満への贈り物
その年に足利義満は亡くなります。足利義持が政治力を身に着けた2年後、朝鮮国より仏教の経典・大蔵経が贈られ ⇔ その返礼として象が朝鮮国に贈られたと云われています。

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あれから数年後、
江戸幕府の8代将軍・徳川吉宗の時代に2頭の象が広南国 (ベトナム) から来日
徳川吉宗は動植物好きため? との説もありますが、そのとき来日した象は、実際には「灰色の象」であったけど『白い象』と記載されているので、当時の人々も仏教的なエピソードを意識していた様子が伺えます。

広南従四位白象 ← 実際には「灰色の象」であったけど『白い象』と記載。
当時は『大船建造の禁』← という大きな船を作ること禁ずる法案が整備されていたので、大きな船で象を直接江戸まで運ぶ事ができなかったので、長崎~江戸までの長旅をしたと云われています。
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(・・? これまで お話?
時代も場所もダイブ飛んでいますが、室町時代の象と江戸時代の象
それを運んで来た人々や時代背景に光 (スポ) ットして見ると
古代から続く複雑な家族政治の何かが見えて来るように思えて来ました。


象が初来日した1408年 (室町時代) は、日本政治の「転換期』でもあり
その後の徳川吉宗の江戸時代とも無関係ではなく、徳川吉宗は紀伊国から出た将軍である事とも関連している思います。

室町時代は日本史の中で1番人気ない時代で、その前の南北朝時代は日本史のブラックホールと云われいます。室町時代の黄金期は3代将軍・足利義満の時代で
その次の4代将軍・足利義持の時代に象が初来日。その象を運んで来た人々や時代背景に光 (スポ) ットして見ると
お話です。


室町幕府の3代将軍・足利義満
4代将軍・足利義持の時代は日本政治の転換期で象が来日
江戸幕府の初興の祖は徳川家康
中興の祖は8代将軍・徳川吉宗と云われているので
その時代にまた象が来日している事も気になりました。




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江戸時代、広南国 (ベトナム) から象を運んで来た商人は鄭大威という清国商人。象遣いはベトナム人々で商人や通訳は福建省や広東省といった南中国の人々が多くいたようです。
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象の古里?
インドネシアやベトナムは南方的な「東南アジア」? という印象があるのですが
民的には南方文明 ⇔ 官的には北方文明に組していた時代もあったといいます。

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(・・? 仏教は2タイプ?

東南アジアの仏教王国であったタイやラオス・カンボジア・ビルマ等は南伝仏教 (上座部仏教) ⇔ 1部のインドネシアやベトナムは北伝仏教 (大乗仏教) を信仰する時代があったといい。北伝仏教の影響~? むかしベトナムでも漢字を使用していたようです。
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江戸幕府の8代将軍・徳川吉宗の時代のベトナムは、明朝ではなく
清朝の冊封体制下に入っていたようですが、象を運んで来た商人たちは清国の商人なのですが、福建省や広東省といった南中国の商人が多くいた事が気になりました。

1644年、
中国政府は明朝~清朝に王朝交替。← その時代ころ、南中国や台湾・長崎や武蔵国の小石川区や常陸国・下総国など。 明朝の関係者が多く政治的亡命していた時代がありました。
よく知られている人物は 鄭成功 。
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E9%84%AD%E8%8A%9D%E9%BE%8D
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その時代ころ江戸幕府は3代将軍・徳川家光の時代で、その時代は天主教の取締りが厳しい時代で
1635年ころ朱印船貿易も停止し、日本人の海外渡航と帰国を禁止。故郷に帰国できなくなった日本人も多くいたようです。

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それまでは
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東南アジア方面に『日本町』を形成するほどの海外交流が行なわれていたようです。
明朝の時代~
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内容は複雑していますが、
また、8代将軍・徳川吉宗の時代に登場する青木昆陽は江戸の小石川村 → 下総国の馬加 (まくわり / 幕張) 村 → 上総国の99里村にサツマイモ栽培します。← 下総国には99人 (たくさん) の紀伊国の人々が移住したと云われています。
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サツマイモの原産地は中南米大陸で南中国のマカオが商人たちの発送拠点になっていたようです。

青木昆陽の祖先は摂津の海人で、彼らは浄土系の関係者が多く、当初は東京府の小石川区辺りに住んでいましたが、1644年 (←明清交替の時代) ころ、佃島という人工島を築島しその島に住まうように。
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前回お話と今回お話
内容が違うようにも見えるかもしれませんが、室町時代と江戸時代に来日した象を運んで来た商人たちの net 網に光 (スポ) ットして見ると
まったく無関係とは思えない物があるように思えて来ました。


金満按司 (カニマンあんじ) と呼ばれた製鉄職人たちの御嶽 (うたき) で
金 (カニ) は金属 / 鉄類
満 (マン) は満 (たくさん)
按司 (あんじ) は職を司る主 (あるじ) → 金満按司 ≒ 製鉄職人という意味に。



浮島 (那覇島) には熊野的な宗 (衆) の来沖が察度王の時代~存在していたでは? と考えていましたが、その結び付きは
室町時代の来日象と江戸時代の来日象の商人たちの net 網にも関連しているように思います。8代将軍・徳川吉宗は紀伊国から出た将軍で、その紀伊国は熊野的な宗 (衆) の里でもありました。

また考えて見たいです。
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