2023/03/08
小学生のころ、
おじいさんの家に子山羊がおり。自分はその子山羊に草を与えたり、散歩をさせたりしていました。
後ほど、
大人の山羊 (もと子山羊) を食した事があります。
数日後
その山羊が夢に出て来ました
ー↓ー↓ー
– 山羊の夢 –
『あなたはわたしを食しましたね これからあなたは わたしの霊 (マブい) を背負って生きて行かなければなりません そうしないとあなたに因果応報が訪れます』
その夢は作り話なのですが、
そうした『因果応報』ような政治 (祭祀) が、山城国を舞台に行われていたと云われています。
ー(・・? ー?→
ある日のブログでは、
戦前の日本では、
若い頃「足利尊氏にも良い1面が見られる」と作文を過去に記した事を理由に大臣を辞任に追い詰められた政治家もいたようです。
楠木正成 (まさしげ) と 足利尊氏 (たかうじ) 2者の「評価』を白黒するのは大事件にも進展しかけない物で。その代理戦争は古代 〜 現代まで色や形を替えて連綿と続いており。あいまいのままで2本の色で。という政治があった (ある?) と云われています。
2本の色を1本の色にする時、
月星は太陽となつて消えて行きます。
ー↓─━─扉─━─↓ー
山城国の語源は山の後ろ → 山背国。
古代と中世は政治と祭祀の国で、古代は主に政治は藤原氏 ⇔ 祭祀は葛城族 (かも氏など) が担当。平安時代と室町時代に政治は歴史の勝者 ⇔ 祭祀は歴史の敗者。という仕組みが見られました。
平安の京 (みやこ) は不安の京 (みやこ) でした。
ー―…―…→→
山城国は『不安』を「平安」という言霊信仰にした都で。土地の神様は歴史の敗者が多く、神さまの「礼賛」よりも『鎮魂』が重要になっていたようです。
平安時代と同様に 室町時代も『不安』を起点としており、室町幕府を開いた足利尊氏 (たかうじ) もまた『不安の心』を強く持っていました。
ー↓─━─扉─━─↓ー
自分が小中学生ころ、
教科書で足利尊氏 (たかうじ) の絵を見た事があります。
(・・; 小中学生ころ;
教科書の文は記憶ありませんが ⇔ 絵の記憶は強く残っています。その絵を見て、足利尊氏 (たかうじ) は野蛮人? という印象を持っていました。
… 近年では →
その絵は足利尊氏 (たかうじ) ではない。もしくは「伝・足利尊氏」との文に変わっているようです。
実際の足利尊氏は、
「気の強い1面」と『気の弱い1面 』が見られ 躁鬱 (そうウツ) 的な心を持っていたのでは? 基本的な足利尊氏は気の弱い人物? との文献も見られました。
躁鬱的な心は、
ハイテンション ローテンション の2面性があるといいます。
また近年では、
自分が小中学生ころ、源頼朝と云われていた絵は足利尊氏の弟・足利直義 (ただよし) の可能性が高くなっているようです。
兄の足利尊氏 (たかうじ) と弟の足利直義 (ただよし) は対照的な性格で 優柔不断で気の弱い兄 ⇔ 冷静沈着で気の強い弟であった? との文も見られます。
気の弱い兄は、
後醍醐天皇の考えに反して鎌倉に向い。後日、その経緯を説明して京都に戻ろうとしていた事があったといいます。
⇔ その一方 ⇔
気の強い弟は、
せっかく手にした鎌倉、再び兄に京都に戻られては困るので『ニセの綸旨 (りんじ / 手紙) 』を兄に見せていました。
一説によると、
躁鬱的な心を持つ足利尊氏は、後醍醐天皇を亡ぼした時はハイテンションの心になっていた 後ほど ローテンションの心に戻った足利尊氏は後醍醐天皇の怨霊に悩まされ後悔していたと云われています。
後醍醐天皇の怨霊を感じていた足利尊氏は、夢窓疎石 (むそうそせき) という僧侶に相談をしていました。
足利尊氏:わたしは後醍醐天皇を亡ぼした事を後悔しています。いつも夢に出て来て。後醍醐天皇に謝罪したく思います。
夢窓疎石:それでは お寺を建立しましょう。そして、後醍醐天皇の菩提を弔うと良いです。
そのようにして建立されたのが天龍寺で、後醍醐天皇の怨霊を鎮魂するお寺になっていたようです。
ー?→
(・・? その天龍寺建立事業は?
後醍醐天皇や後鳥羽上皇と結び付いていた源実朝がしようとしていた政治 → 唐船建造計画や貨幣経済の流通事業と似ているようにも見えます。
名目上は「宗教」事業なのですが 実質上は貨幣経済 →『商業』に結び付いていたように思います。
平安時代 〜 鎌倉時代は、
天皇 >「貴族 > 僧侶 > 武士」> 民衆。なっており、天皇は神権はあるも政権は弱く、民衆は政権も無い。政治は「貴族 > 僧侶 > 武士」が行い、商業は民衆が行っていたようです。
昔であるほど、
貴族や武士が『商業』をする事は恥ずべき物で。意味は異なるけど、武士の世が終わった明治時代ころ「士族 (もと武士) の商法」という揶揄的なコトワザもあるほど、武士が『商業』をする事は珍しい事であったといいます。
僧侶が行う『宗教』が『商業 / 外交』に。
寺社造営料唐船も、
名目上は「宗教」事業なのですが 実質上は貨幣経済 →『商業』に結び付いていたように思います。
… 室町時代は →
商業が進展した時代。
鎌倉時代・室町時代・江戸時代は武士の時代で、武士が『商業』をする事は恥ずべき物であった。名目上は「宗教」 実質上は『商業』という政治 (祭祀) が見られました。
詳しくは解りませんが、
当時の東北アジアでは、国と国の間に儒教的な政治 (面子) が存在し、その政治 (面子) には商業軽視の傾向が見られ。それは『海賊問題』にも進展する物であったといいます。
国と国の間にある『海賊問題』は、
決して小さな問題ではなく、国家転覆にも結び付く程の大問題で 持ちつ持たれつ関係 → 見えても見えない関係に結び付く事もあったようです。
ー?→
(・・? 山城国というのは?
貴族の里? という印象を持っているのですが? 民衆が政治を行う舞台に。
ー―…―…→→
内容は飛んでいますが、
室町幕府を開いた足利尊氏 (たかうじ) は、鎌倉時代に足利高氏 (たかうじ) という名前をしており、室町時代に足利尊氏 (たかうじ) の名前に。
ー?→
(・・? まことか田舎? お話ですが、
足利尊氏には、
足利直冬 (ただふゆ) という子がいました。
足利尊氏が実子である足利直冬 (ただふゆ) を冷遇していた理由に置いても。直冬 (ただふゆ) の母は身分の低い女性ため? あるいは自分の子ではないと考えていたため? 側室の子であったため? など。諸説あるうち、
一説によると、
足利尊氏が実子である直冬 (ただふゆ) を冷遇していた背景には 自身が亡ぼした鎌倉幕府 (北条家) との関係を気にしていたから? との説もあるようです。
室町幕府の2代将軍は足利義詮 (よしあきら) 、
↓↑
↓↑
(・・? 室町幕府は鎌倉幕府? お話です。
さらに気になる点が見られました。
ー(・・? ー?→
「基氏・義詮・直冬」という3人の子。
↓↑
*新田義貞や源義国の義かも?
ーー*→
あくまでも、
まことか田舎? お話ですが、
またまた
足利尊氏の子 (足利義詮) と楠木正成の子 (楠木正行) のお墓は隣接しているようです。
敵の敵は味方、
昨日の友は今日の敵。
そういう時代でありましたので、
その時代が過ぎた後世に答えを見つける事は難しい問題なのかもしれません。
ー↓ー↓ー
山羊の夢
『あなたはわたしを食しましたね これからあなたは わたしの霊 (マブい) を背負って生きて行かなければなりません そうしないとあなたに因果応報が訪れます』
ー ―→
コメントを残す