2023/03/11
琉球国は第1尚氏王統の5代目・尚金福王が亡くなる。
尚金福王の子である志魯(しろ)と 弟の不理(ふり)が王位継承権を争い「首里城」が炎上しました そして「志魯と不理」ともに戦死しました。
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E5%BF%97%E9%AD%AF%E3%83%BB%E5%B8%83%E9%87%8C%E3%81%AE%E4%B9%B1
尚金福王(5男)の「子と弟」ともに亡くなったので、弟(6男 / 不理)の 弟(7男)である越来 (ごえく) 王子が琉球国は第1尚氏王統の6代目・尚泰久王として即位しました。
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6代目・ 尚泰久王 (もと越来王子) は、今の沖縄市にある越来城 (ごえくグスク) から那覇市にある首里城 (すいグスク) に拠点を遷しました。
首里城が本店 越来城が支店という関係でした。
言っては行けない事かもしれませんが、越来 (ごえく) 王子は陰謀王子でありました。その時もその後も権力の座を得るため維持するため、複数の謀略を行っていたと云われています。
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「志魯・不理の乱」から5年後の1458年8月、今度は「護佐丸・阿麻和利の乱」が勃発した。護佐丸は 尚泰久の妻の父親 ⇔ 阿麻和利は尚泰久の娘婿という関係で政略結婚でした。
民俗学者の折口信夫 (しのぶ) 氏や谷川健一氏が提唱する説で「首里城の第1尚氏王統は『名和氏の残党』」との説があります。
その 「万国津梁の鐘」には『碑文』が書かれ。
碑文(漢文)の鐘銘を書いたのは、 京都五山僧の 渓隠安潜(けいいんあんせん)という禅僧、鐘を造ったのは藤原国善という鋳物師でありました。
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そのは室町幕府の8代将軍・足利義政の時代、
銀閣寺の東山文化 (侘び寂び文化) が進展した時代であると同時に これまで封印されていた南朝的な水面下の日本史が揺れ動いた時代でもありました。
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その時代の琉球でも数多くの寺院建立や梵鐘 (←鉄製品) が作られているのですが、琉球には鉄資源が無いけど、尚泰久王 (もと越来王子) を支えていた護佐丸 (ごさマル) と 阿麻和利 (あまワリ) の拠城 (中城や勝連城) には鉄資源を有する人々が多く見られました。
尚泰久の父親・尚巴志が 北山国 ⇔ 中山国 ⇔ 南山国 3つ三山国に分別していた琉球を統一しましたが、当時はまだ、北山国の残党がはびこる不安定な時代でありました。
沖縄市にある越来城 (ごえくグスク) と那覇市にある首里城 (すいグスク) は中山国 (琉球国) の拠点。
尚泰久が 首里城主(琉球国王)になると、 護佐丸は座喜味城 ~ 中城 (なかぐすく) 城に拠点を遷しました。 中城城は、首里城と越来城のちょうど中間に位置していました。
中山国 (琉球国) の城の門は警戒地 (北) に向ける事が多いのですが、護佐丸の中城城の門は 南(首里城)に向いていました。
一説によると、
中城城の門が南(首里城)に向いていた事に 驚いた 首里城主・尚泰久は、勝連城主・ 阿麻和利に→ 中城城主・ 護佐丸を討たせました。そして、鬼大城に →勝連城主・ 阿麻和利を討たせました。今では信じられないお話でありますが、兄弟どうし身内どうし亡ぼし合う時代でありました。
護佐丸の拠城である中城 (なかぐすく) 城や阿麻和利
の拠城である勝連城には日本製や中国製の鉄器や製品が多く出土し 商人たちの net 網が古くからあったと云われています。
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その後も自分の権力を脅かす岳父 ・ 護佐丸 と娘婿・ 阿麻和利を失った 尚泰久は、後ろめたさ、怨霊信仰から仏教に帰依しました。 尚泰久は 歴代の琉球国王の中で最も仏教に帰依した王であると同時に、多くの寺院建立、銅鐘製造など‥しました。
記録に残るだけでも三十口ほど、梵鐘が短期間で大量に鋳造され、わずか一時期、一地域でこれほどたくさんの梵鐘が鋳造されたのは、日本の歴史上に比べてもきわめて希有な時代でありました。
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(・・? 少し気になるお話として?
1450年 / 5代目・尚金福王の時代に芥隠承琥 (かいいんしょうこ) という京都五山派の僧侶が琉球に来沖していました。
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E8%8A%A5%E9%9A%A0%E6%89%BF%E7%90%A5
1456年 / 6代目・尚泰久王 (もと越来王子) の時代に芥隠承琥は『広厳寺・普門寺・天龍寺』という3つの寺を琉球に建立していました。
南禅寺の開祖者は2人おり、
南禅寺の開山者は無関普門 (むかんふもん) 開基者は亀山法皇といいます。
前回のブログ では、
1456年 / 6代目・尚泰久王 (もと越来王子) の時代に芥隠承琥は『広厳寺・普門寺・天龍寺』という3つ寺を琉球に建立しました。
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