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時代の正成 その1

先日、
ある方のブログに政治家の稲田議員が楠木正成に関する「ともみ組」を結成? という情報が流れており。リンク先の楠木正成に関する礼賛法に少し違和感を覚えました。

楠木正成 (クスノキまさしげ) は、
鎌倉時代 〜 南北朝時代ころ登場する人物で、天皇への忠義心を持つ人物として皇居の前にも楠木正成の銅像があるようです。


注意

自分は決して、
楠木正成を悪く思っていなく ⇔ むしろ良い評価をしています。が、

楠木正成の人物像は、
その時代の「政治」や『空気』によつて大きく変動する事もあり、冷静な視点を大切に思います。

ご迷惑をおかけします 類似お話は ご迷惑をおかけします
政治家の杉田議員も楠木正成に関する「楠公様 / 大楠公』という風な「政治 / 空気』を活用していた動画チャンネルを見た事あります。

目 稲田議員 楠木正成 サーチ
目 杉田議員 楠木正成 サーチ
検索して見ました。

ー?→

(・・? もしも?
政治家の稲田議員や杉田議員が持つ「政治 / 空気』が世の中に浸透してしまうと? 偏狭的な社会が蔓延する気もします。

例えば、
京都を象徴する『西陣織』が「逆賊織」と呼ばれた時期もあったようです。

西陣織は、
室町幕府を開いた足利家に縁ある織物と云われ ⇔ 上記の楠木正成と足利家はライバル関係にありましたので、忠臣・楠木正成の敵である足利家は朝敵 (逆賊) →『西陣織』=「逆賊織」という短絡的で偏狭的な思考回路に結び付く事です。

それは極端な例で政治家がそのように指導しなくとも、そうした「空気』が浸透してしまい偏狭的な社会が蔓延したからだと思います。


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鎌倉時代 → 建武の新政時代 → 南北朝時代 → 室町時代 → 

一般的に南北朝時代は、
山城国の室町幕府は北朝 ⇔ 大和国や摂津国に南朝という2つ朝廷の対立時代があり てんびん座 楠木正成は南朝の忠臣 (重鎮) と知られているのですが、実際の楠木正成南北朝時代が始まる前に亡くなっていますので、彼がその対立軸をどのように思っているのか? 部分も見られます。


実際の楠木正成は、
いはゆる北朝 (足利尊氏) 側と和睦を提言していたけど、後醍醐天皇に受け入れてもらえづ負けると解りつつ最期を遂げた。
↓↑
江戸時代に儒学者の朱舜水が来日後 自転車 実際の楠木正成とは異なる人物像が思い描かれ → 後にその「政治 / 空気』が浸透 → その「政治 / 空気』は戦意高揚にも利用される事もあったようです。
↓↑
楠木正成は鎌倉時代 ⇔ 楠木正成人物像は江戸時代に描かれているようにも思います。

↓↑
戦意高揚に利用された楠木正成の忠義心
昭和になって太平洋戦争が始まると、楠木正成の忠義は戦意高揚にも利用され、楠木正成が最期に誓った言葉「七生滅賊」は、何度生まれ変わっても国のために戦うという意味の『七生報国』(しちしょうほうこく)と言い換えられました。

敗戦色が強まるなか沖縄周辺で繰り広げられた特攻作戦は、楠木正成の家紋にちなんで「菊水作戦」と名付けられ、多くの特攻隊員が七生報国をスローガンに死んでいきました。

<菊水作戦とは>
1945年(昭和20年)、米軍を始めとした連合国軍の沖縄攻撃に対して、日本帝国海軍航空部隊が行なった特別攻撃作戦。4月6日の菊水一号作戦に始まり、6月22日の菊水十号作戦に至るまで、特攻で2,000人が戦死しました。また、これに呼応して陸軍航空部隊も特攻を実施し、約1,000人が戦死したのです。

ー・→

戦いに敗北した正成は、弟の楠木正季と刺し違えて最期を遂げたと伝わる。敗走して手勢の少なくなった楠木勢73人は民家に駆け込み、六間の客殿に二列に並んで座り十念を唱えながら自害したという。死に際に正成は正季に九界のうちどこに行くことを願うか問うと、正季は「七生マデ只同ジ人間ニ生レテ、朝敵ヲ滅サバヤトコソ存候へ」と答えたという。これはのちの「七生報国」の語の由来になった。




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1976年3月23日朝、
東京・世田谷区等々力の児玉誉士夫宅に、セスナ機 (小型飛行機) が突っ込み爆発した。児玉邸の2階一部が焼け、別室で寝ていた児玉は無事だったが、お手伝いさんが負傷した。庭先にはセスナ機の残骸と、黒焦げになった操縦士の遺体があった。その青年は、 映画俳優・前野光保 (29歳) だった。

 警視庁は「背後関係はなく、前野の単独犯行」と同日中に断定している。

児玉氏は「右翼の大物」であったため、セスナ機で児玉邸に突っ込んだ前野は『左翼活動家』かと?‥ 思われましたが ⇔ そうではなかった。 前野は児玉について、右翼の「思想家」ではなく ⇔『利権屋』と断じていた。そして彼は、70年11月に陸上自衛隊市ヶ谷駐屯地で自決した三島由紀夫に『心酔』しており、普段から「俺はサムライだ。三島こそサムライ」、 「児玉はけしからん。そのうち俺が成敗してやる」‥ と、周囲に語っていた。

76年12月23日火曜日の冷たい朝、
セスナ機免許を持つ 29歳の映画俳優・前野光保は、仲間3人と神風特攻隊の制服を着、「七生報国」と書かれたハチマキを巻き、調布飛行場に姿を現した前野は、飛行クラブの係に特攻隊の飛行シーンを撮影ためセスナ機を借りたいと告げた。

飛び立つ前には神風特攻隊の制服、「七生報国」と書かれたハチマキ姿で、ポーズを決めて写真撮影を行ない「天皇陛下万歳!」と叫び 仲間を従えてセスナ機は一時間ほど編隊を組んで東京上空を飛んでいた。それから前野は仲間に世田谷に用事があると伝え、等々力の児玉邸上空を低空で急旋廻した後、そのまま突撃した。

この事件は海外で 「最後の特攻隊 / 最後のカミカゼ」と報じられたが、国内では特に大きな波紋を残すことはなかった。

前野が精神的柱 (心酔) にしていた三島由紀夫は、1970年11月25日に 陸上自衛隊市ヶ谷駐屯地で大国依存 (隠れ従属体制) からの独立を訴えて自決。その三島由紀夫が自決日を11月25日を選んだのは、その日は三島由紀夫が精神的柱としていた吉田松陰の命日だったからと云われています。

↑三島由紀夫も七生報国という文字が書かれたハチマキをして自決をしていました。

ー 注意 ー * 

三島由紀夫が思い描く楠木正成と稲田議員や杉田議員が思い描く楠木正成人物像はまた大きく異なります。それもその時代の「政治」や『空気』によつて大きく変動事に思います。


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鎌倉時代 → 建武の新政時代 → 南北朝時代 → 室町時代 →

一般的に梅松論は北朝 (将方) 側 ⇔ 太平記は南朝 (宮方) 側 の視点を持つ歴史本と語られていますが、作者不明の梅松論太平記も室町時代 (足利家の時代) に製作されている可能性が高いので、実際にはそうした対極図ではなく ⇔ 南朝 (宮方) 側 の視点を持つ太平記敗者に対する怨霊信仰ような太平を願う書物では? との声も見られます。



梅松論
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E6%A2%85%E6%9D%BE%E8%AB%96

太平記
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%AA%E5%B9%B3%E8%A8%98


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 – 足利尊氏太平記 –
室町幕府を開いた足利尊氏 (たかうじ) は、鎌倉時代に足利高氏 (たかうじ) という名前をしており、室町時代に足利尊氏の名前に。

最後の鎌倉幕府の執権・北条高時の「」〜  後醍醐天皇の即位前の名前・尊治親王の『』〜「足利高氏」→『足利尊氏』という名前に。

足利尊氏尊治親王 (後醍醐天皇) を亡ぼしたので、『尊』という文字を使用する事は「けしからん」という人もいるのですが ⇔ 足利尊氏尊治親王 (後醍醐天皇) の怨霊に悩まされており、謝罪したい思い (念) を持ち室町幕府を開いていました。

(・・? 視点を替えると?
足利治親王 (後醍醐天皇) の念 → 敗者の念を背負って生きていたのではないか? とも考えられます。

『尊』という文字を使用する事は「けしからん」という考えは、謝罪したい思い (念) までも否定してしまいます。

太平記』も「戦乱記」を描いているけど『太平』という名前をしているのも、敗者に対する思い (念) → 怨霊信仰本? という人もいます。


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実際の南北朝時代 →
「北朝 ⇔ 南朝』という対立軸は、南朝の後醍醐天皇も忠臣の楠木正成も亡くなった後に全盛期を迎えています。

室町幕府 (北朝) では、
兄の足利尊氏 (たかうじ) と 弟の足利直義 (ただよし) の兄弟ケンカ (内乱) が起きていました。


南北朝の対立軸は、
後醍醐天皇楠木正成も亡くなった後に生まれており、弟の足利直義 (ただよし) が南朝 ⇔ 兄の足利尊氏 (たかうじ) が北朝に付いた時代もあれば ⇔ その反対に、兄の足利尊氏 (たかうじ) が南朝 ⇔ 弟の足利直義 (ただよし) が北朝に付いた時代もありました。
↓↑
兄と弟は何度も和睦 (仲直り) を試みましたが ⇔ 回りがそれを許さなかった。

敵の敵は味方、
昨日の友は今日の敵。

「北朝 ⇔ 南朝』という対立軸は、
そのどちらの「政治 (思想) が正統か」というよりも、1方が『敗者の駆け込み寺』ような役割をしていたと思います。
↓↑
(・・? どうして?
南朝 (敗者) の人々は敵である弟と兄を受け入れたのか? という事を思うと? それはその政治 (思想) とはあまり関係の無い物であった。その時代が過ぎた後世に1人歩きした楠木正成の人物像があるのかもしれません。



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日本史の中で1番人気が無い室町時代と日本史のブラックホールと呼ばれる南北朝時代は重複しており てんびん座 その南北朝時代を終了 (南北朝の合一) させたのが室町幕府の3代将軍・足利義満でありました。

足利義満は日本史の中で最も人気のない人物で、彼は逆賊』と呼ばれた時代もありますが 目 歴史の「勝者敗者』の不思議な関係に光 (スポ) ット して見ると ひらめき電球 時代と場所は飛んでいても!? という政治の仕組みが見えて来ます 目
↓↑
そのとき歴史の勝者北朝  敗者南朝でありましたが、水面下では南北朝時代は続いており 自転車 室町幕府の8代将軍・足利義政の時代に封印されていた南朝 (歴史の敗者) は勢いを増します。


室町幕府の3代将軍・足利義満の時代、
観阿弥 という人物が『お庭』を作っていました。
観阿弥 と 世阿弥 親子は能の大成者として知られています。

梅原猛氏によると、
 逆賊と呼ばれた足利義満の時代に『お庭』を作っていた観阿弥楠木正成甥 (おい) である? との説を唱えているようです。
観阿弥
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E8%A6%B3%E9%98%BF%E5%BC%A5

世阿弥
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%96%E9%98%BF%E5%BC%A5

梅原猛 
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E6%A2%85%E5%8E%9F%E7%8C%9B


ダンプカー―…ご迷惑をおかけします―…ご迷惑をおかけします工事中


能の源泉も「戦乱記」を描いている『太平記』という名前も足利尊氏『尊』という文字も → 敗者の念を背負って生きていたのではないか? とも考えられ。『尊』という文字を使用する事は「けしからん」という考えは、謝罪したい思い (念) までも否定してしまいます。
ー?→

 目 歴史の「勝者敗者』の不思議な関係に光 (スポ) ット して見ると ひらめき電球 時代の正成が見えて来るかもしれません 目

鎌倉時代の楠木正成 ⇔ 江戸時代に流行した楠木正成人物像 てんびん座 本当の正成はどのように考えているのか? 非常に複雑で難しい問題に思います。

ー 注意 ー * 

あくまでも
その政治家がそのように指導した訳ではありませんが、その時代に流行した楠木正成人物像が1人歩きしてしまう「政治 / 空気』には気をつけたい物です。



ー 流れ星 竹。。



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