2023/02/03
1600年10月21日
美濃国で天下分けめの 関ヶ原の戦い が行われていました。
(・・? 端的にいうと?
その戦いは「豊臣家 と 徳川家」の戦いで。比較的、豊臣家には島の西方関係者 ⇔ 徳川家には東方関係者が多く付いたので「豊臣家 (西軍) ⇔ 徳川家 (東軍) 」戦いと云われています。
その戦いは、徳川家 (東軍) が勝利し ⇔ 豊臣家 (西軍) に付いた諸大名たちは「処刑・流罪・減封」等の戦後処理が行われ、1603年に江戸時代が始まります
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(・・? 気になるお話?
薩摩の島津義弘は 関ヶ原の戦い で豊臣家 (西軍) の側に付いていたのですが、『所領安堵』という特例スペシャルな戦後処理が行われていました。
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その理由について、
島津家は強かったので。難攻不落の城を持っていたので。特種な鉄砲を持っていたので。海外勢力と結び付いてので。豊臣家残党の懐柔策ため。等の説が語られております。
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(・・? もしかすると?
徳川家も島津家も豊臣家も浄土的なエネルギーを「利用」しつつ『封印』していた? あるいは『封印』しつつ「利用」していた? 思う事ありました。
日本の鎌倉時代も室町時代も江戸時代も 明朝 (中国) でも琉球でも 3代メと4代メ 8代メの時代は政治の転換期になっていた 歴史は何度も 繰返し栗返し → デジャブする → 事を考えて見ました。
浄土的なエネルギーは、
人々が不安を感じている時は「利用」され ⇔ 平安な時代には『封印』される 人々がゴールを目指す時は「利用」され ⇔ ゴールした後には『封印』される。重商主義や民衆政治にも結び付きやすく 時の権力社はそのエネルギーを「利用」しつつ『封印』していた? ように思います。
浄土的なエネルギーと類似する宗教 (思想) は、浄土教や道教・ミトラス教・弥勒教・ゾロアスター教・阿弥陀教・マニ教・密教・陰陽道など。呪術的で占い要素を含む思想で その源泉は大月氏 (ペルシア系民族) が大月氏国を建国した中央アジアのバクトリア地方を由来するとも云われています。
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内容は複雑していますが、
大月氏国 (ペルシア系民族) から分裂した仏教王国・クシャーナ朝 (インド化したペルシア系民族) はグローバるな商業王国で。クシャーナ朝はササン朝に ササン朝はイスラム教国に亡ぼされるのですが 歴史の勝者は敗者の文明を『吸収』して拡大 グローバるな商業王国・クシャーナ朝の名残は回教徒と呼ばれたイスラム教のムスリム商人たちに継承されて行きます →
大月氏国 (グローバるな商業王国) が拠点としていたシルクロードの天山南路は 後ほど『回紇 (ウイグル / 回鶻) 人』の拠点となり、その回紇 (ウイグル) 人は民族的にはテュルク系 文明的にはペルシア系の風習を継承。
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(・・? 時代も場所も民族も?
ダイブ飛んでいますが 歴史は何度も 繰返し栗返し → デジャブする事を考えており。その名残は中国にも日本にも多大な影響を与えていたように思います。
浄土的なエネルギーは、
商業的で「共同的」『あの世的』な特徴が強く見られ グローバるな行商人たちに支えられる事が多く、重商主義や民衆政治にも結び付きやすくありました。
… あの世的な思想は →
道教ではこの世は現世 (イチミ) あの世は後生 (グソー) → 終わり始まり →
浄土教ではこの世は穢土 ⇔ あの世は浄土。
マニ教ではこの世界は暗い ⇔ あの世界は明い。
浄土教の阿弥陀様はあの世の案内仏、弥勒教の弥勒様は未来仏 イスラム教でもあの世はマイナスではない思想を持っており。そうした思想は昔であるほど行商人たちに支えられる事が多く 重商主義や民衆政治にも結び付きやすくありようです。
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現在よりも未来? という思想は王朝交替 (政権交代) などの民衆運動に結び付く事もあったように思います。
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天下分けめの『関ヶ原の戦い」は『戦国時代』と「江戸時代」 の分岐点にもなっており 戦国時代は人々がゴールを目指す時代 ⇔ 江戸時代は体制を維持する時代になっていました。
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(・・? もしかすると?
徳川家も島津家も豊臣家も浄土的なエネルギーを「利用」しつつ『封印』していた? あるいは『封印』しつつ「利用」していた? その可能性について少し振り返って見ました。
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1598年に豊臣秀吉は亡くなる。
1599年に庄内の乱 (←浄土的な乱) が終わる。
1600年に関ヶ原の戦い起きる。
1602年に浄土的な本願寺は東西に分別する。その年、南九州では公式に浄土的な一向宗の禁制が出る。
1603年に徳川家康は朝廷より征夷大将軍の称号を得て 江戸時代が始まる →
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徳川家康は「天下取り」以上に『征夷大将軍』の称号を得る事に苦労しており。その称号は浄土的な寺 (時衆 / 時宗) の協力が無ければ不可能な物と云われています。
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(・・? 気になるお話?
薩摩の島津義弘は1600年の 関ヶ原の戦い で豊臣家 (西軍) の側に付いていたのですが、『所領安堵』という特例スペシャルな戦後処理が行われていました。
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その理由について諸説ありますが、
… ここでは →
徳川家も島津家も豊臣家も浄土的なエネルギーを「利用」しつつ『封印』していた? あるいは『封印』しつつ「利用」していた? その可能性について考えております。
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(・・? おもえば?
どうして? 島津義弘は豊臣家 (西軍) の側に付いていたのか? 不思議もあり。豊臣家と島津家の間においても、持ちつ持たれつ緊張関係が存在し、豊臣家も浄土的な伊集院家を利用して島津家の懐柔策 (分断工作) を試みていた? お話を見た事あります。
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豊臣家の大坂城も浄土的な石山本願寺を埋立て築城。その基盤は浄土的な名残があったようです。
薩摩の島津義弘は、
浄土的な一向衆の禁制 (封印) をした人物と知られているのですが、本の少し調べて見ると? 島津義弘も浄土的なエネルギーを『封印』しつつ「利用」していた? 思えて来ました。
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1600年の関ヶ原の戦いとき、
豊臣家 (西軍) の敗戦が決定的となり、戦地に取り残された島津義弘一行は、大胆な逃避行 (島津の退き口) を行っていました。
*島津家の拠点は九州島 ← 西方に。
… 通常だと →
戦地 (美濃国の関ヶ原) に取り残されたとき ← 西方に向かって ← 逃避行すると思いますが ⇔ 島津義弘一行は大胆にも → 東方に中央突破 → 徳川家 (東軍) の目前まで迫り → 逃避行 (島津の退き口) を語られています。
その時の島津義弘一行は、
「共同的」で『あの世的』 浄土的な戦法を用いていたように見えます また島津義弘は『金創医』と呼ばれる外科手術を身に付けており、彼は遊牧的で民衆タイプ / 民衆思想のような視点を持っていたとも云われています。
『金創医』と呼ばれる外科手術は、
今日の外科手術とは異なり『呪術的』な要素も含まれ、その源泉は 遊牧的で浄土的な時衆 / 時宗の僧侶を由来としているようです。
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1602年に島津家の『所領安堵』が決定、
その1602年は浄土的な本願寺が東西に分別した年でもあり。その翌年、1603年に徳川家康は朝廷より征夷大将軍の称号が与えられ、江戸時代が始まります
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その称号は浄土的な寺 (時衆 / 時宗) の協力が無ければ不可能な物と云われています。
またまた
「島津義弘の逃避行」と『徳川家康の逃避行』を支えた「衆』が非常によく似ているように思います。
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(・・? 徳川家康の逃避行とは?
「本能寺の変」とき。徳川家康は和泉国の堺で茶会を開いていました。自身の居城 (岡崎城) に戻る際も浄土的な「衆』の手を借りていた説があります。
… 毎度こと →
長文駄文になっておりますが、
「島津義弘の逃避行」と『徳川家康の逃避行』を支えた「衆』が非常によく似ている そこには「持ちつ持たれつ関係」『見えても見えない関係』が古代から続いていた (いる?) 。その源泉は グローバるな商業王国・クシャーナ朝の名残が見られる。事について考えております。
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