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2つのナショナる運動

最近のブログでは、
尖閣諸島に関する情報を載せて見ました。


熟読はしていませんが、
関連性を思われる情報や複数本を見てみました。
(・・? もしかすると?
尖閣諸島の問題は、
表面上は「外向きナショナる」⇔  水面下で『内向きナショナる』問題が隠れているように思えて来ました。

西洋でも東洋でも、
紀元前?古代もの大昔から『内側』への不満を「外側」に向ける 自転車 対外的な「ナショナる政治』が見られました。

外側に向けたナショナる政治は アップ 熱し過ぎると 爆弾 内側に向かう時もあるので てんびん座 時の権力社はそのエネルギーを「利用」するも『封印』する政治があった (ある?) ように思います。
*利用と封印

ー(・・? ー?→

尖閣諸島には、
日本や中国・台湾・香港などの活動家が上陸する事があり テレビ マスコミもその光景を都合的に『封印』しつつ「利用」しているように感じました。

尖閣諸島には、
日清戦争の後、99戸260人ほどの日本人が住んでいた時代がありましたが、日清戦争の前は、日本側も清朝 (中国) の動向をかなり気にしていた様子や研究者の間にもハッキリとしない何かがあり。そして意外にも?時の権力社は意図的に『先送り / 棚上げ』という『あいまい政策』を行っているように見えました。

米軍が実効支配していた時代にも、民間の漁民どうし衝突があったけど、その対応にもあいまい部分が見られます。

外務省の見解では、
『尖閣諸島は日本の固有地、そもそも尖閣諸島に領土問題は存在しない』と発表 ⇔ 研究者によると、そうした外務省の『逃げの答弁』は国際法には通用せづ、現に領土問題が発生している。と、見られました。


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尖閣問題が強まったのは、
1968年 〜1972年
当初は日本と中華民国 (国民党 / 台湾島) との間に発生していたようです。

1968年、
国連の機関によつて、尖閣諸島の海底に石油が発見された後、台湾 ⇔ 日本 ⇔ 中国との間に領有権を巡る論争が強まったと云われています。

ご迷惑をおかけします 当時の世界情勢 ご迷惑をおかけします
国連の5大国 →
前半は英国・米国・フ国・ソ連・中国
後半は英国・米国・フ国・ロ国・中国
↓↑
後ほど、
ソ連 〜 ロシアに、
中華民国 〜 中華人民共和国に。

1970年まで中華民国 (国民党 / 台湾島) が国連5大国 → 1971年から中華人民共和国 (共産党 / 中国島) が国連5大国になったといいます。


ー?→

詳しくは解りませんが、
尖閣問題が強まった1968年 〜1972年。ベトナム反戦運動などの学生運動が高まっており。そうしたエネルギーは アップ 時の権力社も恐れるナショナる運動であったと云われています。

ナショナる運動には、
「左派的運動 > 右派的運動』見られ。

時の権力社は右派的運動を「利用」して左派的運動を『封印』。後ほど 自転車 右派的運動が熱し過ぎると アップ 今度はそのエネルギーも『封印』する ダウン そうした政治は古今東西、紀元前?古代もの大昔から存在していた (いる?) ように思います。



ー↓─━ドア─扉─ドア━─↓ー



1968年は国際勝共連合と呼ばれる右派的な学生運動 (外向ナショナる) が結成された時代。その政治団体 (宗教団体) は CIA の下部組織で、とう教会の別働隊とも云われています。
1972年  その関連機関 (とう教会) が米国のワシントンに拠点を設置。

1972年5月 (佐藤政権) は沖縄県が日本国に返還された年、1972年9月 (田中政権) は日中国交正常化の年で てんびん座 政治の転換期にもなっていました。


1968年 1972年にかけて、
日米間で沖縄県の『施政権』が日本国に返還する政治が行われると、米国に留学していた台湾人学生の間で保釣 (ほちょう) 運動と呼ばれる『中華ナショナるデモ / 学生運動』が盛んに。そうした『中華ナショナるデモ / 保釣運動』は米国ほか、中国大陸や香港・台湾・世界各地にある華僑ネットワークにも飛び火し 爆弾 左派的学生 ⇔ 右派的学生など 長音記号2 多種多様な政治運動にも結び付いたといいます。


そうした『中華ナショナるデモ』は愛国運動なので、日本政府に対する『反日デモ』に結び付く事もあれば ⇔ 身内である中国政府や台湾政府・香港政府に向かうケースもあるようです。
↓↑
(・・? その類似事は?
古今東西、紀元前?古代もの大昔からあった (ある?) ように思います。



ー↓─━ドア─扉─ドア━─↓ー



これまで内容と異なりますが、
尖閣問題が強まった1968年 〜1972年「軍的な密約」『商的な密約』が結ばれた時代の転換期に?思う事もありました。

1968年は米国大統領選挙の年、
共和党のニクソン大統領は、軍的にはベトナムからの米軍の撤退 てんびん座 商的には米中関係の改善を公約に掲げて当選。さらに、ニクソン大統領の選挙区は繊維業の里 ⇔ 日本の繊維業とライバル関係にありました。

ご迷惑をおかけします 当時の世界情勢 ご迷惑をおかけします
資本主義社会主義の対立軸 →
英国と米国 ⇔ 中国とソ連

英米関係は仲良しようで不仲、
中ソ関係も仲良しようで不仲、
米中関係は不仲だけど仲良し。
↓↑
中国共産党とソ連共産党は わんわん 犬猿の仲 にゃー
米国と日本の間にも商的な繊維交渉 / 貿易摩擦が生じていました。
↓↑
1968年
軍的にはソ連  てんびん座 商的には中国、
軍的には米国  てんびん座 商的には日本。
があったようです。
↓↑
1972年
米国は秘密裏中華民国 (国民党) 〜 中華人民共和国 (共産党) に商的な外交スタンスを切替えるを云われています。
↓↑
当時、米国と日本の間に軍的安保体制が整備されていました。

(・・? もしかすると?
軍的安保体制には「裏ミッション』があったのか?思う事もありました。

1972年
ニクソン大統領の政治顧問はキッシンジャー博士で てんびん座 中国の周恩来首相と秘密会談。

中国の周恩来首相は、
日本が再び軍拡路線する事をかなり警戒し、米国と日本の軍的安保体制に置いても警戒していたといいます。
↓↑
米国のキッシンジャー博士は、
米国と日本の安保体制は 長音記号2 日本が再び単独で軍拡路線しないよう『監視的な役割』がある。と、中国の周恩来首相に説明し安心させていたようです。

ー(・・? ー?→

ある方のブログによると、
1968年に発表された尖閣諸島の海底油田には採算性の問題があるので 目 今日では海洋進出の問題が見られるも 目 日本は今でも軍的にも商的にも米国に警戒されている?と、載っていました。

ご迷惑をおかけします もう一度 ご迷惑をおかけします
ナショナる運動には、
「左派的運動 > 右派的運動』見られ。

時の権力社は右派的運動を「利用」して左派的運動を『封印』。後ほど 自転車 右派的運動が熱し過ぎると アップ 今度はそのエネルギーも『封印』する ダウン そうした政治は自民党の宏池会 (商的) と清和会 (軍的) 仕組みにも感じました。

軍的な核密約をした佐藤総理は清和会
商的な秘密裏をした田中総理は宏池会の田中派から派生した経世会といいます。

尖閣問題が強まった1968年 〜1972年。米国はニクソン大統領とキッシンジャー博士、中国は毛沢東と周恩来、台湾は蔣介石と学生運動?日本は佐藤総理と田中総理と大平正芳外相の時代。
今でも、キッシンジャー博士と米国で学生運動をしていた国民党の馬英九は、その時代を知っているようです。


(・・? もと学生運動 ⇔ いま学生運動?


ダンプカー―…ご迷惑をおかけします―…ご迷惑をおかけします工事中


日米関係は同盟関係、
中米関係は競争関係。

日本は同盟関係のみ重視して てんびん座 歴史を軽視すると危険な落とし穴に入るかもしれません。日本は米国 (国連5国) に戦争で敗れた事を真摯に受け止め、ナショナる火遊びは非常に危険と心得おもいます。← 今でも米国 (国連5国) は忘れていないといいます。



竹。。



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