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第1回 後ろの天女史

これからする お話は、
表舞台ではなく裏舞台。マニアックで小さなマイナーお話ありますが、後ろの琉球史 → 後ろの日本史 → 後ろの高麗史 → ほかにも 長音記号2 巾広く結び付く物と考えております。



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母方の祖母は、
具志川村田場の人でありました。
その地は那覇市から車で1時間3?40分くらい。コレといった特徴のない田舎部落でありましたが、大きな庭と石垣に囲われた敷地内に古ぼけたコンクリート家や錆びたトタン家・赤瓦家など。並んでいました。
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家 / 建物は那覇市の一般的な家屋よりも劣るけど < 庭や石垣は大きく てんびん座 庭と石垣 > 古ぼけた建物 てんびん座 アンバランスな家が何軒かありました。何もない田舎部落なので、那覇市よりも大きな庭と石垣があったのだと思います。

小学生ころ、
盆正月など。おばあさんの親族回りをすると、真顔で『自分たちの祖先は首里 (すい / 都) から来 (ちゅ) ーたん』と、自慢する親族が複数おり。幼いながらも『んな訳ない』とスルー (聞き流) していました。

ご迷惑をおかけします 沖縄には ご迷惑をおかけします
『祖先は首里人 (すいンちゅ) 』と、自慢する お年寄りが島のアチコチにたくさん。首里は1種のブランド名?思います。
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母さんも『その事』を信じているようで。素性の知れないユタ的な人とともに首里尚家の発祥地と云われる伊平屋島に『ウートートー』しに行ったりしていました。

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大人になつて、
目 複数の書物を見てみると 目
首里尚家 ← 王族ではありませんが、それに仕えていた職業関係者に具志川村田場の人が複数見られたので、その可能性もゼロではないと思う事ありました。
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有名人物は、
琉球古典音楽の創始者・湛水親方 (たんすいウェーカタ) こと → 幸地賢忠具志川村田場の人でありました。




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昔んかし、
琉球古典音楽の基礎を作ったと評される湛水親方いました。
湛水親方は琉球王府に仕える傍ら三線 (さんしん) 音楽の湛水流を創始、今日の沖縄三線音楽の基礎をきずく。1672年に踊奉行となるが翌年失脚。のち首里に呼び戻され茶道頭役についた。

唐名は夏徳庸 (か とくよう) 、和名は幸地賢忠 (こうち けんちゅう) 、童名は思次郎 (うみじらー) 。出家後の湛水親方 (たんすいウェーカタ) の名前で知られています。


湛水親方は16歳とき、摂政 (総理大臣) の羽地朝秀に芸や音楽の才能を見いだされ伝統芸能や謡曲、茶道、華道を学ぶように使節として日本へ派遣されました。

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数年後、
湛水親方は帰国後に踊奉行に抜擢。
踊奉行(おどりぶぎょう)は冊封や国王の年忌の際に臨時に任命される役職。式典で行われる舞踊や音楽などの監督する役職。

日本の伝統芸能や音楽を学ぶため、国費で日本に渡っていましたが、


久しぶりに琉球に帰国した湛水親方は日本に負けぬよう琉球の古典的な芸能や音楽に重きを置いていたと云われています。

(・・; そのため;摂政 (総理大臣) の羽地朝秀の怒りに触れました。
 雷 雷 雷    雷 爆弾 むかっ
お前は国費で日本の伝統芸能を学ばせたが、琉球の伝統芸能に重きを置くとは何事だ 爆弾 むかっ」という怒りでした。

ー (・・? ー?→

湛水親方の時代、琉球の政治家には「知清派 (親中派) 」と『知日家 (親日派) 』という政治派閥があり、羽地朝秀は知日家で『日琉同祖論』の考えを持ち、秘密裏に日本の伝統芸能を奨励する同化政策を勧めていました。

その同化政策に納得いかない湛水親方は、琉球の踊奉行という役職を捨て、首里 (都) を離れ、
具志川村の田場でひっそり暮らしたと云われています。

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三年後、
摂政 (総理大臣) の羽地朝秀 が亡くなると、再び茶道頭として首里 (都) に呼び戻されました。そのとき、仏門に入り  「湛水 (たんすい) 」  という名前になったようです。
湛水親方こと → 幸地忠 (唐名:徳庸) は てんびん座 鬼大城こと → 越来勇 (唐名:居数) の子孫。

ご迷惑をおかけします 鬼大城こと ご迷惑をおかけします
越来賢勇 (唐名:居数) は歴史の敗者

―(・・? ―?→

1469 (成化5) 年4月22日
金丸 (カニまる) 革命が起き、 琉球の王統は第1尚氏」王統 第2尚氏』王統 に交替しました。


琉球の王統が第1尚氏王統 ~ 第2尚氏王統に交替したとき ⇆ 越来村や具志川村・読谷山村・北谷村など。第1尚氏王統に仕えていた職業関係者 (歴史の敗者) が多く住むようになったと云われています。

具志川 (ぐしちゃー) 村うるま市 てんびん座 越来 (ごえく) 村沖縄市に。

(・・? 複雑お話?
摂政 (総理大臣) の羽地朝秀尚宣威王の子孫。


鬼大城第1尚氏王統の重鎮 てんびん座 尚宣威王第2尚氏王統だけど王位を廃嫡?簒奪された人物。← ともに てんびん座 歴史の敗者湛水親方鬼大城の子孫 てんびん座 羽地朝秀尚宣威王の子孫。

鬼大城尚宣威王の お墓は越来村 (いま沖縄市) にあります。

―;→

(・・; 長文駄文で;
マニアックお話;これまで お話と後ろの日本史 → 後ろの高麗史 長音記号2 いったい何の結び付きあるのか はてなマーク 思う方もいると思いますが、古くから具志川村越来村など。歴史の敗者の里であった事を紹介して見ました。

鬼大城の父親は具志川村栄野比、母親は越来村知花。ほかにも、具志川村越来村に縁ある重要な歴史の敗者がおります。

ひとまづ休憩して お茶 
また長文駄文になります。



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その昔、

首里城の脇城として南風原 (はえばる) 村に具志川村田場から移住して来た具志川按司 (ぐしちゃーアンジ) によつて宮城 (みやグスク) が築城されました。


第1尚氏王統の最後の国王・尚徳王の母親である宮里阿護母志良礼 (みやざとアゴモしられ) は越来村宮里の人で、妃は具志川按司の娘であったようです。


王府史記 (琉球の歴史書) には、
第1尚氏王統尚徳王悪王であったので ⇆ 第2尚氏王統に政権交代 (王統交替) した。と記載。

ご迷惑をおかけします 琉球史では ご迷惑をおかけします
歴史の勝者政治  敗者祭祀 てんびん座 勝者表舞台  敗者裏舞台。という仕組みが見られるので具志川村田場から移住して来た具志川按司 (ぐしちゃーアンジ) が築いた宮城 (みやグスク) 霊的空間として 自転車 その後も機能したように思います。


ダンプカー―…ご迷惑をおかけします―…ご迷惑をおかけします工事中


 第2尚氏王統の3代・尚真王の時代 →

首里区域に三平等 (ミフィラ) と呼ばれる霊的空間が整備されました。南風之平等 (フェーぬフィラ) 、北風之平等 (ニシぬフィラ) 、真和志之平等 (マージぬフィラ) 。

南風之平等の区域に首里の崎山町、金城町、赤田町など。その区域は崎山里主 (さきやまサトヌシ) の活動拠点でありました。

崎山里主は 前回のブログ で登場した天女の子 → 察度 (さっと) 王の子です。
王府史記 (琉球の歴史書) には、察度王の子は武寧 (ぶねい) 王のみ。と記載されていますが、崎山里主は察度王の子である武寧王の兄または弟と云われています。
*異母兄弟

民間伝承によると、

崎山里主は那覇の辻村 (遊郭地) で働く妓女 (ジュリ) と察度王との間に生まれた子。那覇の波上宮に熊野権現を普及させた人物で、老後は首里の崎山町に隠居したといいます。


那覇の小禄村にある金満御嶽 (カニマンうたき) には、崎山門中の御嶽 (うたき) があるという。

崎山里主の母と姉は那覇に辻村で暮らし、亡くなったあと「辻遊郭開祖之墓」が建てられ、今でも『水商売の神』として崇められ、旧暦の廿日 (二十日) 正月の「ジュリ馬行事」の際に拝まれています。

―(・・? ―?→

内容は複雑していますが、
首里の南原 (フェーばる) に南風原 (ハエばる) 村 てんびん座 北原 (ニシばる) 西原 (ニシはら) 村がありました。

ご迷惑をおかけします 沖縄音では ご迷惑をおかけします

東 (アガリ / 上) 、西 (イリ / 入) 、
南 (フェー / はえ) 、北 (ニシ)
↓↑
原 (ニシばる) は西原 (ニシはら) 、
北の門 → 武門 (ニシんジョウ) は西武門 (ニシんジョウ) に転じています。

首里の南風之平等 (フェーぬフィラ) 〜 南風原 (ハエばる) 村にかけて区域は、崎山里主の活動拠点。

南風原村の宮城 (みやグスク) には 流れ星 天女伝説があり 天使 その内容は 前回のブログ で登場した天女の子 → 察度 (さっと) 王の物語と似ています。

民間伝承によると、
南風原村宮城 (みやグスク) 大国大主 (デークンうふしゅ) の拠点で、首里の南風之平等
から崎山里主が養子に来て大国子 (デークンしー) になった。との言い伝えがあるようです。
↓↑
大国子 (デークンしー) 大国大主 (デークンうふしゅ) の養子 長音記号2 後ほど大国子天女と結婚 天使 そして大国子は毎日釣りをするほど釣り好き うお座 云われています。

―?→

(・・? 実はいうと?
南風原村にはが無いけど、大国子は毎日釣りをしていた伝承や大国大主 (デークンうふしゅ) の養子 長音記号2 大国子 (デークンしー) はてなマーク その名称や説話は日本の出雲神? 大国主命 (オオクニヌシ) 信仰と似ているようにも見えます。

ー(・・? ー?→

1502年 / 第2尚氏王統の3代・尚真王の時代 → 天女橋 (曲線橋) が首里城北側の円鑑池に築かれていました。
天女橋を渡ると、朝鮮から贈られた「方冊蔵経」(高麗版大蔵経)を納めるための経堂があったといいます。
↓↑
その時代は、
首里区域に南風之平等 (フェーぬフィラ) 、北風之平等 (ニシぬフィラ) 、真和志之平等 (マージぬフィラ) 。三平等 (ミフィラ) と呼ばれる霊的空間が整備された時代と同時期 てんびん座 首里の南風之平等 (フェーぬフィラ) 〜 南風原 (ハエばる) 村の宮城 (みやグスク) にかけて区域は、崎山里主の活動拠点。

崎山里主天女の子 → 察度 (さっと) 王の子で 天使 後ほど崎山里主宮城 (みやグスク) 大国大主 (デークンうふしゅ) の養子となり 長音記号2 大国子 (デークンしー) に 天使 その妻は天女であったという民間伝承。

ご迷惑をおかけします ある歴史家は ご迷惑をおかけします
天女伝説は荒唐無稽お話ではなく、重要な暗号が隠れている 天使 天女の『』は北 (ニシ) 』から来た高麗系の女性を意味。天女の子 → 察度 (さっと) 王の時代は、中国は元朝 〜 明朝、王氏高麗 〜 李氏朝鮮、日本は南朝と北朝の南北朝時代。激動の時代でありましたので 波 そうした余波が遠く離れた琉球政治にも波及していたでは? とも述べていました。

ー(・・? ー?→

ブログ内容もダイブ飛んでいますが、
それも天女の余波が及んで思います。



― 天使 → 流れ星  竹。。



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