2023/11/16
首里城正殿の火災後、
なぜか net上では、首里城の屋根瓦は『赤色』ではなく ⇔「黒色」であった。そのため、再建する際には原則通り忠実に「黒色」に。といった情報が流布。2014年に米軍が「カラー映像化」した白黒写真によると、戦前 (1945年) の首里城正殿は黒い屋根瓦をしていた? という情報が火災後たくさん流れていました。
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2019年12月16日
沖縄タイムス電子版 →
首里城火災後、インターネット上で「首里城の瓦の色は戦前は日本風の黒だった」という主張が展開されている。「黒」の証拠として掲載された戦前の正殿の写真はモノクロの画像に着色したもので根拠に薄い。瓦の研究者は、琉球では16世紀後半から中国系の灰色 (黒) の瓦が焼かれていたが、17世紀末から赤瓦に移行し、灰色の瓦は19世紀初めには生産されなくなったと推定する。学術的には復元のモデルとなった時代から戦前までの首里城正殿の屋根は赤というほかなさそうだ。(社会部・城間有)
「黒」の根拠として掲載されている資料の一つが、琉球大学付属図書館所蔵の「ブール文庫」にある「琉球国王の城」とキャプションがついた写真。この写真を掲載し「首里城は戦前の姿から中国人好みに捏造されていた」「本来の姿に再建を」などの主張がみられる。
◆戦前の職人の証言
「赤瓦から灰色の瓦にふき替えられたという記録も伝承もなく、戦前の瓦は赤だったという職人の証言もある」とし、戦前に写真が撮られた時点も正殿の屋根は赤瓦でふかれていた、とした。
また、正殿奥の御内原 (うーちばる / 後宮) エリアで、マンガン釉 (ゆう) で黒く塗った赤瓦が見つかったことから正殿の瓦が黒かったと推測する投稿に対しては、「正殿の屋根をふくには数が少ない。戦前、首里城を沖縄神社にした時、拝殿としての正殿の奥に、神殿などの黒い瓦をふいた小さな建物を造ったのではないか」と推測した。
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net 上では、
「黒瓦は日本色 ⇔ 赤瓦は中国色』といった発想が見られましたが、中国にも黒瓦は存在し ⇔ 日本にも赤瓦が存在していたようです。
… 首里城の屋根瓦は →
黒瓦 (高麗瓦) が 赤瓦 (琉球瓦) に転訛した物。時代によつて、中国系の「黒瓦 / 赤瓦』が使用されていた時代、板葺き時代もあるけど。戦前の首里城は赤瓦を乗せていた事は確かだといいます。
またまた
黒瓦は高温を要し ⇔ 赤瓦は低温で表現できるので、
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なぜ 首里城正殿は「向拝」と呼ばれていたのか?気になる事がありました。
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首里城正殿の火災後、
News番組で「こんな問いかけ」が上映されていました。
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「あなたにとつて首里城は何ですか?」
⇔
(・・? それは巨大な美術工芸品?
学校の遠足や観光収入の建物?など。あまり深く考え事ありません。また自分の父さんは、定年前に観光バスの運転手をしており。何度も観光客や修学旅行生を首里城公園まで連れて行っていたけど、1度も首里城正殿 (有料区間) を見た事がない。という。
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沖縄県民の中にも、
首里城にまったく関心がない人がたくさんいると思います。
… 今日では →
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ある日のブログ では、
首里城正殿は ∩ お墓や霊柩車 ∩ 銭湯 (極楽浄土の湯) 、お神輿など。宗教色を含んだ物の形に似ています。
✽銭湯 ← 極楽浄土 ← 天国の湯
… 端的に言うと →
「琉球王国」は王法と仏法が一体化した「仏教王国」でありました。
首里城正殿は、
琉球時代は仏教的 明治12年 〜 神道的な施設 (沖縄神社) になっていたようです。
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前回お話 と 今回お話 いったい何の関係があるのか?思う方もいるかもしれません。自分の解釈では、首里城が朱色を高めた時代があり その時代は儒教的な中国文明と道教的な日本文明あったと考えています。
… 道教的死生観では →
朱色は非常に重要なアイテム。浦島太郎伝説にも、道教的な神仙思想 → 常世の国・不老不死の仙薬 (丹薬) など。見られます。
首里城が朱色を高めた時代の日本は、2つの「朝」と 2つの『京』がありました。
2つの「朝」→
1つは北朝 2つは南朝、
2つの『京』→
1つは本京都 2つは西の京。
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首里城が朱色を高めた時代 →
16世紀 / 嘉靖年間 (1522 ‐ 66年) 、
中国は明の時代、沖縄島に瓦職人 (中国人) が渡って来ました。
中国名は解りませんが、
瓦職人は渡嘉敷三良 (トカシチさんらー) と呼ばれていました。おそらく、明の元号・嘉靖の「嘉」+ 島 (敷地) に『渡』て来たから渡嘉敷?思われます。
(・・? 関連してるか?
日本海は『石見国』にも赤瓦の文明があり、そのほか『若狭国』や『丹の国』『越の国』方面にも道教的な浦島太郎伝説、天女伝説漆器や丹薬・ベンガラなど。朱色の文明が見られました。
✽朱色は道教的死生観の重要アイテム
またまた
『石見国』方面には大国主信仰や石見銀山とも接点を持ち。後ほど、石見銀山の資源が枯渇するようになると アイヌ産の海産物 (昆布やフカヒレ等) が越の国 〜 薩摩国 → 琉球国を経由して 中国貿易に結び付きます。
… 前回お話 →
ある歴史家は、
天女伝説は荒唐無稽お話ではなく、重要な暗号が隠れている 天女の『天』は『北 (ニシ) 』から来た高麗系の女性を意味。天女の子 → 察度 (さっと) 王の時代は、中国は元朝 〜 明朝、王氏高麗 〜 李氏朝鮮、日本では南朝と北朝の南北朝時代。激動の時代でありましたので そうした余波が遠く離れた琉球政治にも波及していたでは? とも述べていました。
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首里城が朱色を高めた時代 →
その時代は琉球に熊野信仰が再興された時代でありました。
熊野信仰の初興・崎山里主の時代は、
熊野信仰の再興・日秀上人の時代は、
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熊野信仰の初興・崎山里主、
熊野信仰の再興・日秀上人。
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波上山護国寺 (真言宗) は 高野山や熊野の根来寺と結び付くお寺。南北朝時代ころ、薩摩国の一乗院 (真言宗) から頼重法印という僧侶が来沖して琉球に開山。当時、薩摩国の一乗院は熊野の根来寺と結び付く 別院であったといいます。
南北朝の合一時代ころ、
崎山里主と頼重法印が登場 護国寺 (真言宗) と 波上宮 と 那覇の辻村 (遊郭地) はSet関係で整備。 大国子 (デークンしー) こと崎山里主は天女の子 → 察度王の子で その妻も天女であったという民間伝承。
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あれから数年後、
またまた
首里城が朱色を高めた嘉靖年間 (1522 ‐ 66年) に 本京都 と 西の京 が衝突。
首里城が朱色を高めた嘉靖年間 (1522 ‐ 66年) に 琉球では正室と側室が衝突していました。
詳しくは解りませんが、
東大には正門と赤門があり 東大の赤門は加賀国を由来としているようです。
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(・・? 実はいうと?
… 毎度こと →
長文駄文ブログなっていますが、
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