芋の島 その1

この芋野郎、芋姉ちゃん、芋ぽい人、芋侍。

悪口で芋を表現する事もあるようですが、日本には、芋がなかったら「この世」に存在していない『芋の子孫』がたくさんいるという。
日本は芋の島


奈良時代や平安時代まで、

「芋 (いも) 」は『芋 (ウモ) 』 と呼ばれていたようです。

ー?→


(・・? 芋 (ウモ) というと?

サツマウモジャガウモを連想する方も多いと思いますが、この2ウモは 江戸時代ころ来日。

昔であるほど、芋 (ウモ) といえば 山芋や田芋・里芋などを指していたようです。

万葉仮名では「宇毛 (ウモ) 」→

後ほど『有毛 (うも) 』と表記。
https://www.weblio.jp/有毛 (ウモ)

芋 (ウモ) は、

親芋 → 種芋 → 子芋 → 孫芋 → と → 芋づる式に繁栄するため、中秋の名月 (芋名月) に「里芋 (ちんぬく / 地芋の子) 」を用いて子孫繁栄を願う芋煮会を行う事もあったという。

繁殖力が強く、子孫繁栄の象徴と知られています。

ー 古芋 と 新芋  ー

山芋・田芋・里芋は古芋 (ウモ) ⇔ サツマイモ・ジャガイモは新芋 (いも) 。


ー?!→


(・・! 偶然にも?!

古芋 (ウモ) と新芋 (いも) 。ともに、東南アジア方面 (南蛮 / 真南蛮)  を「中継地』として来日? といいます。


古芋 (ウモ) = 田芋や里芋はタロイモの子孫で、その原産地は古代マレー半島とも云われています。https://ja.m.wikipedia./タロイモ

 ⇔ 新芋 (サツマイモジャガイモ) の原産地は南米だけど、馬来 (マレイ) を拠点としていた商人たちが南米より持ち帰ったと云われています。

馬来 (マレイ) を拠点としていたのは、
ムスリム商人 → ポルトガル商人 → オランダ商人 →

https://ja.m.wikipedia./マレー半島

馬来 (マレイ) と表記する事も →https://ja.m.wikipedia./馬来 / マレイ

https://ja.m.wikipedia./馬来 (マレイ) 人

ー;→


(・・; 詳しくは解りませんが;

馬来 (マレイ) には馬三保が来ていました。

回教徒 (イスラム教徒) の馬三保ムスリム商人 (イスラム教徒の商人) とともに来島。

https://ja.m.wikipedia./鄭和 (馬三保)

鄭和(てい わ、1371年 – 1434年)は、中国は明代の武将。12歳の時に永楽帝宦官 (かんがん) として仕えた。軍功をあげて重用され、1405年から1433年までの南海への7度の大航海の指揮を委ねられた。鄭和の船団は東南アジア、インド、セイロン島からアラビア半島、アフリカにまで航海し、最も遠い地点ではアフリカ東海岸のマリンディまで到達した。
ー・・→

生い立ち →

馬三保 (後の鄭和) は、1371年に馬哈只 (マハッジ) の子として雲南省でムスリム (イスラム教徒) として生まれた。姓の「」は預言者マホメット (ムハンマド) の子孫 (サイイド) であることを示し、名の「哈只(ハッジ)」はイスラム教の聖地メッカへの巡礼者に与えられる尊称ハッジに由来する。
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宦官・鄭和 →

鄭和が生まれた1371年には、雲南はいまだ元王朝系の梁王国の支配下に置かれていたものの、すでに中国本土は朱元璋の建てた明の支配下にあり、元の勢力は雲南など数か所で余喘を保っているのみとなっていた。1381年、鄭和が10歳の時に明は雲南攻略の軍を起こし、翌1382年に雲南は滅亡。鄭和は捕らえられて去勢され、1383年ごろに宦官として当時燕王だった朱棣(のちの永楽帝)に献上された。


朱元璋の死後、1399年から1402年にかけての靖難の役において馬三保は功績を挙げ、帝位を奪取した永楽帝より宦官の最高職である太監に任じられた。さらに1404年には鄭の姓を下賜され、馬三保は鄭和と名乗るようになった。https://ja.m.wikipedia./鄭和 (馬三保)

馬三保 (後の鄭和) の馬 (マ) 姓は、イスラム教の創始者・マホメット (ムハンマド) の「マ」を由来? とも。

馬来 (マレー) 半島の南西部にはアユタヤ朝 (タイ) に属するマラッカ朝があったといいます。


ー マラッカ王国 ー

14世紀末ころマレー半島西南部に建国されたマラッカ王国は、当時タイのアユタヤ王国に従属していたが、15世紀前半に鄭和 (馬三保) の南海遠征が行われるとその拠点となり、15世紀半ばには国王がイスラーム教へ改宗してイスラーム世界との結びつきを強めていった。その後マラッカ王国はアユタヤ王国から独立し、明への朝貢貿易を継続しながら、インド洋と東南アジアとの中継地点である地の利を活かし、15世紀中頃以降16世紀初期にポルトガルの進攻を受けてを受けて滅亡するまでの間、ジャワのマジャパヒト公国にかわって東南アジアにおける最大の貿易拠点となった。https://sekainorekisi.com/glossary/%E9%84%AD%E5%92%8C/


ー?→


ムスリム化 →

1405年には明の永楽帝より命を受け、遠くアフリカ大陸まで大遠征を行った海軍大将・鄭和の艦隊も、マラッカに初寄港している。マラッカ王朝は朝貢貿易を通じ明国との同盟を強固し、北の大国シャム、南のサムドラ・パサイ王国からの脅威を牽制していた。マラッカ王国は1414年頃イスラム化し、香辛料貿易における重要な東西中継港として繁栄を極めた。
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後ほど → ポルトガル領マラッカ → オランダ領マラッカに。


イエズス会のフランシスコ・ザビエルはここから東アジア布教に出発している。https://ja.m.wikipedia./ムラカ

明の時代、「内政」に重きを置く「儒家勢力」と『外向』に重きを置く『宦官勢力』の2つ勢力があり、明朝の3代・永楽帝は『宦官勢力』の協力を得て帝位についたので、外向の政治家 (宦官勢力) 側に重きを置いていました。


中でも、鄭和 (ていわ) は『宦官勢力』の重鎮として活躍し、近年では、鄭和 (馬三保) の艦隊が、初めて世界一周をしていた。と指摘されています。

*近年、英国の退役海軍将校で歴史学者でもあるガビン・メンジースが「スペインのマゼラン艦隊」よりも100年先に『鄭和 (ていわ) の艦隊』が「世界一周」をしていた。と指摘しているほどです。


明朝の3代・永楽帝が亡くなると、『外向』に重きを置く『宦官勢力』の勢いは衰退し  ⇔「内政」に重きを置く「儒家勢力」の勢いが増して行き、鄭和 (馬三保) の艦隊が作った『航海地図』などが焼かれてしまいました。


その『航海地図』は、中国大陸では姿を消しましたが、E欧諸国には残っていました。


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明代の1557年には、

中国の南蛮地域 / 広東省のマカオのみ、ポルトガル商人が私貿易を行う事を許可しました。


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内容は複雑していますが;

ジャガイモの語源は、17世紀初めにジャワ島のジャガトラ (現・ジャカルタ) から伝来した「ジャガトライモ」が転訛して『ジャガイモ』になった説? 


中国語の馬鈴薯 (マーリンシュー) が馬鈴薯 (ばれいしょ) ? 


馬来 (マレー) の芋」が馬鈴薯 (ばれいしょ) ? という説など。諸説あるようです。https://ja.m.wikipedia./ジャガイモ

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ジャワ島には主にジャワ人が住んでいたけど、マレー人ほか、複数の民族・複数の宗教が混合するイスラム教国でもあったようです。


古芋 (ウモ) に対して ⇔ 新芋 (サツマイモジャガイモ) の原産地は南米だけど、馬来 (マレイ) を拠点としていた商人たちが南米より持ち帰ったと云われています。


また考えて見たいです。

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