芋の島 その2

お待たせしました。

(・・; 待っていない;思いますが;
前回の続き →です →

いよいよ、南米原産の新芋 (サツマイモ) が来日した経緯について、「もうそう」 と『仮説』→「もう説』を建てて見ました。

おそらく、
南米原産の新芋 (サツマイモ) を東方アジアに普及させたのは、ポルトガル商人やスペイン商人だと思われます。

1557年 / 明 (中国) は広州の澳門 (マカオ) は、ポルトガル商人やスペイン商人たちに「私貿易」のみ許可する開港地であったといいます。

サツマイモは明 (中国) で、
番薯 (ファンシュー) ・ 甘藷 (カンシュー) ・ 红薯 (ホンシュー) と呼ばれ、南米 → 馬来 (マレー) → 明 (中国) → 琉球 → 日本に伝来。しだいに、唐芋 (トーんむ) ・ 甘藷 (かんしょ) ・ 薩摩芋などと呼ばれて行きます →

九州島へは「平戸ルート」と『薩摩ルート』の2つ。平戸 ~ 四国島、薩摩 ~ 日本島へ流通ためサツマイモ名が主流に。

ここでは、
平戸ルート」はキリスト色
薩摩ルート』は一向色。と、「もう説』を建てて見ました。

当時は「キリスト教」と『一向宗 / 一向衆』の取締まりの風が強く吹き始めた時代、中でも南九州島は2宗 (衆) の取締まりが全国的にも強かったと知られています。

その以前 (戦国時代) から、
日本列島の大名たちの間では「キリスト教」と『一向宗 / 一向衆』の取締まり (警戒) は基本中の本になっていましたが、

小田原の後北条氏はライバル対策として、「キリスト教」と『一向宗 / 一向衆』の取締まり (警戒) をゆるめ2「宗 / 衆』の活用例も見られたと云われています。

江戸の日本橋5街道の起点 →
5街道の1つ・甲州街道は、有事の際の『避難用通路』として整備された保険街道で、小田原の後北条氏の残党 (同心) たちが整備したと云われています。

小田原の後北条氏を亡ぼしたのは「豊臣秀吉と徳川家康』でした。

https://ja.m.wikipedia./小田原征伐

後ほど、徳川家康は小田原の後北条氏の残党 (同心) たち / 歴史の敗者を活用していたようです。

今日でも、新宿百人町や八王子千人町など。100人の同心、1000人の同心が集う町? という町名由来もあるようです。

そのほか、甲州街道沿い / 近くには、日本橋小田原町小石川区同心町小石川区諏訪町など。その名残が見られます。


ー(・・? ー?→


内容は複雑していますが、
ひとまづ、取締まり対照の2宗 (衆) お話は置いといて、サツマイモを持ち帰った人、普及させた人。見てみました。

    ー↓ー↓ー

奄美諸島では芋 (うも) 、沖縄諸島では芋 (んむ) 、宮古諸島では芋 (んーぬ) 。

唐芋の伝来説によると →
1597年に宮古島の役人・
長真氏旨屋 (ちゅうしんうじシウク) が中国から宮古島に持ち帰り、

1605年に沖縄島の役人・
与覇那松 (ゆふぁなマチュー) が中国から沖縄島に持ち帰ったと云われています。

当時の 明 (中国) では、 (食品) は国外への持ち出し禁止品であったという。

長真氏旨屋、与那覇松。
ともに、芋の「根」ではなく ⇔ 芋の『茎葉』を植木鉢に挿し『観葉植物』として琉球に持ち帰ったと云われています。
*芋の根 (食品) は持ち出し禁止品

ー?!→

(・・! 後ほど?!
観葉植物として 明 (中国) より持ち帰った芋の『茎葉』の下から「ヒゲ」が出て来て → しだいに「根 (食品) 」が出て来た?! 云われています。

ハチ

コスモス

与那覇松 (ゆふぁなマチュー) は北谷間切野国村(現・嘉手納町野国)の人で、進貢船乗組員の總管 (そうかん / 総管) という役職をしていたので野國總管 (のぐにそうかん) と呼ばれていました。
https://ja.m.wikipedia./野國總管
唐名・總 世健、琉名・与那覇 松。

ー?→

後ほど →
儀間真常 (麻平衡) が与覇那松 (總世健) から譲り受けた芋を沖縄島に広めたといいます。
https://ja.m.wikipedia./儀間真常
唐名・麻平衡、琉名・儀間真常。

ー?→

1705年に薩摩の海運業者・前田利右衛門 (まえだリエモン) が沖縄島から九州島に持ち帰ったと云われています。

https://ja.m.wikipedia./前田利右衛門

1732 (享保16) 年には「享保の大飢饉」が発生。米に代わる主用作物を探していた青木昆陽が九州島で目にした物が リエモン芋 (唐芋) であったという。

青木昆陽は、江戸の日本橋小田原町(東京都中央区)の魚屋・佃屋半右衛門の1人息子として生まれる。
https://ja.m.wikipedia./青木昆陽

青木昆陽の父親・佃屋半右衛門は摂津国の人? 近江商人の流れ? 上総国の人など。諸説あるようですが、祖先は「摂津国多田村昆陽野」に住んでいたという説をインプットして見ました。
https://crd.ndl.go.jp/reference/modules/d3ndlcrdentry/index.php?page=ref_view&id=1000206870
↓↑
p.120に「父は姓を青木といい、その先祖は摂津国佃村(大阪市西淀川区佃町)の漁師で、大坂夏の陣に徳川方について働き、その功によって、天正十八年徳川家康江戸入府のさい、名主・森孫左衛門に率いられて、幕府の魚御用を許され、江戸へ移住し、魚河岸の市場を作った人々の一人であった。青木家の氏は源家で、遠祖は摂津多田神社(川西市多田)の神官・飯倉権頭末国と伝え、紋章は剣かたばみを用いている。」とあります。

ー!?→

(・・! 青木昆陽の祖先は?!
摂津国佃村の漁師?! その説を信じて見ると! おもしろデジャブる (既視感) と結び付きます。

デジャブる出来事として、
青木昆陽は生活困窮者を救済する小石川薬園 (小石川植物園) を開いていた事です。

https://ja.m.wikipedia./小石川養成所

(・・! 小石川といえば?!

摂津国佃村の漁師たちが最初に住んでいた村です。

ー(・・! ー?!→

後ほど、小石川に住んでいた摂津国佃村の漁師たちは佃島 (人工島) を開拓し、佃島佃煮 (つくだに) の里になって行きます →

3代将軍・徳川家光の時代に佃島 (人工島) と 石川島 (人工島) が築島。

佃島 (人工島) と 石川島 (人工島) を築島した人々は、一向宗 (衆) の関係者が多くいたと云われています。

加賀国は日本の中で最も「一向一揆」の盛んな地、後ほど「石川」と『前田さん』の里になって行きます →
江戸の中に、小さな日向? 小さな石川?
古文献では、南九州の総称として『日向』と表現される事もあったようです。

ー(・・! ー?!→

与覇那松 (總世健) から譲り受けた芋を沖縄島に広めた儀間真常 (麻平衡) は一向宗 (衆) の信徒でした。

(・・? 詳しくは解りませんが? 儀間真常 (麻平衡) が生まれた垣花村は儀間村に。後ほど、儀間真常は『住吉信仰』を日本から琉球に持帰ります。

ー(・・! ー?!→

実は!

江戸に『住吉信仰』を普及させたのも、摂津国佃村の漁師たちで、彼らは一向宗 (衆) に属する人々が多くいたようです。

その昔、日本橋の北側に「小田原町」があり、後北条氏の居城・小田原城の石工たちが多く移り住み、江戸城でも石工を担当。その小田原町は『石揚場』にもなっていたようです。*石工も後北条氏の残党
 ー・→
後ほど、日本橋・北側の「小田原町」には、魚河岸 (うおがし) と呼ばれる魚市場が誕生します。
https://kotobank.jp/word/魚河岸

魚河岸 (日本橋の魚市場) の起源は、徳川家康が江戸に招いた摂津の海人 (佃村の漁師) と関連しているようです。

摂津の海人 (佃村の漁師) は、将軍家に魚を納める仕事を与えられていましたが、そのとき、余った魚は庶民にも販売されていた事が、日本橋・魚河岸の始まり。と云われています。

やがて、日本橋・北側の小田原町 (石揚場) は築地に移転する事になり、日本橋・北側の小田原町は「本小田原町」てんびん座 築地小田原町は『南小田原町』と呼ばれるようになったといいます。

(・・! そのとき?! 日本橋の本小田原町に住んでいた魚商人も築地の南小田原町に移り住みだと云われています。

*本小田原町 → 日本橋本町に。
*南小田原町 → 築地町に。

(・・? 内容はごちゃごちゃしていますが、青木昆陽は日本橋小田原町と小石川に縁ある人物で、その祖先が摂津国佃村の漁師たちとも縁があるように思えて来ました。彼らは初代将軍・徳川家康の時代、住まいは小石川、仕事場は日本橋小田原町であったようです。

後ほど、小石川に住んでいた摂津国佃村の漁師たちは佃島 (人工島) を開拓し、佃島佃煮 (つくだに) の里になって行きます →

3代将軍・徳川家光の時代に佃島 (人工島) と 石川島 (人工島) が築島。

佃島 (人工島) と 石川島 (人工島) を築島した人々は、一向宗 (衆) の関係者が多くいたと云われています。

(・・; 4代将軍・徳川家綱の時代ころ ~ 「キリスト教」と『一向宗 / 一向衆』の取締まり (警戒) の風が強く吹き始めたようにも思います。

また「もうそう」と『仮説』→「もう説』を建てて見たいです。

、す。

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