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第4回 もう説の糸満史

ご迷惑をおかけします 毎度事ですが ご迷惑をおかけします
この度ブログも、たいへんマニアックで見る方は疲れる内容になっております。

主点は琉球史の前身。それは、水面下の商業史と考えております。そうした『水面下の商業史』を知ると、思いがけない世界と結び付き 長音記号2 今後の人生 目 新たな視点が芽生えて来るかもしれません 目



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遠い おじさんは怒りました。

いつまでも『ひねくれて』いないで 雷 早く沖縄島に帰ってこい 爆弾

おい子は帰りたくない‥ と朝鮮半島に残りました。

ー(・・? ー?→

南山国では、汪英紫 (ウーえいし / 叔父) の勢力が承察度 (ウフさとぅ / 甥) を圧倒し、ついに承察度汪英紫の迫害に抗しきれず、朝鮮国に亡命するという事件があった。

むかし沖縄島の南方にあった国。

南山国の2代・大里 (ウフじゃとぅ) 王が亡くなると、 王の「子」である承察度 (ウフさとぅ) 王子と ⇔ 王の「弟」である汪英紫 (ウーえーし) が王位継承権を争い。形勢が不利になった 承察度王子は、朝鮮半島の晋陽に亡命しました。

ー?→

1394年、
承察度 (ウフさとぅ) 王子は、南山国 (大里城) の覇権争いで叔父の汪英紫に迫害され、朝鮮半島の晋陽へ亡命。4年後には温沙道 (ウェンさと) と号し朝鮮皇帝と謁見、皇帝から手厚い優遇を受けていた。


遠い おじさん =  中山国察度 (さっと) 王は、倭寇に襲撃された朝鮮人を救助し 朝鮮国に送還した際、おい子 = 南山国承察度 (ウフさとぅ) 王子の帰国を促していました。
*心配していた↑


ー?→
初代・大里 王 → 2代・大里 (ウフじゃとぅ) 王 → 承察度(ウフさとぅ) 王子 ⇔ 3代・汪英紫 (ウーえーし)  → 4代・達勃期 (たぶち) 王 →5代・汪応祖 (ウーうふす) 王 →6代・他魯毎 (たるみー) 王に。
沖縄島は「北山国中山国南山国」「3山国」に分裂する戦国時代。

(・・? いったいなぜ? 別の国 (中山国) の国王・察度が、朝鮮国に亡命した南山国承察度王子の帰還要請 (心配) をしていたのか? 疑問に思っていました。

中山国 (後の琉球国) は察度王の時代、大きな交易船が入港できるよう → これまでの牧港 (浦添の港) ~ 那覇港に整備移転すると同時に → 都も浦添城 ~ 首里城に遷都準備していたと云われています。

カゼ そうした整備期間中 あせる
中山国察度王統 てんびん座 南山国大里王統ともに、尚巴志 (第一尚氏王統) に亡ぼされます。

中山国 (浦添城) と 南山国 (大里城) は天日子 (てだこ) の町 晴れ 中山国は世子 (長男) や次男・正室の子 > 南山国は王子 (三男) や四男・側室の子、など。王家の「本流」と『庶流』の関係にあったようです。https://www.asaobo.jp/blog/1734



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1299 (元の大徳3) 年8月5日 
中山国 (浦添城) では天日子 (てだこ / 英祖王) が71歳にして亡くなる。

英祖王の長男・大成王は54歳にして即位するも在位は僅か9年という短さで亡くなる。そして、2代・大成王の子 →3代・英慈王が即位するも在位は僅か5年の短さでこの世を去りました。 英祖王統の初代・英祖王は長生きしましたので、子・大成王 (享年62歳) → 孫・英慈王 (享年46歳) の時代が短かったと云われています。


ご迷惑をおかけします 通例では ご迷惑をおかけします
王の世子 (長男) や王子 (次男) が王位に就く場面ですが、四男である玉城 (たまぐすく) が19歳の若さで4代・玉城王として即位しました。https://ja.m.wikipedia./英祖王統

英祖王統の4代・玉城王は、王位に就く前は南山国の玉城 (たまグスク) 間切を領地としていましたので、南山国出身の人が中山国の王様になっていた事になります。
*庶流の王

ご迷惑をおかけします王府史記によると ご迷惑をおかけします
英祖王統の4代・玉城王が酒色に溺れたため、琉球国は三山国 → 3つ国に分別、再び疫病が流行、政治も不安定な世を迎えた。

4代・玉城王が亡くなると、10歳の西威王が誕生するも、5代・西威王は政治の事がまだ解らなかったので、西威王の母親であり玉城王の妻である思樽 (うむたる) が政治を行う。 思樽 (うむたる) は、政治を私物化し世はさらに乱れた‥
↑と、王府史記

そこで、英祖王統 (5代) は終わり ⇔ 察度王統 (2代) が始まります→ 引き続きの察度 (さっと) 王の母親はあの時の天女でした。

https://asakobonobulogu.ti-da.net/e7040813.html

↑そのとき?
察度
 (さっと) 王は「姉と弟」二人兄弟で、母親は空高く天に飛んで行きました。

ー!?→

(・・! ところが?!
王府史記には、突如として察度王の弟・泰期 (たいき) が登場します。

泰期 (たいき) 察度王の異母弟で、の史書 (明朝実録) にも記載される実在人物です。https://ryukyushimpo.jp/okinawa-dic/prentry-41942.html
↑その中
で登場する朝の招諭使・楊載 (ようさい) は来沖前、日本 (九州島) を訪れ、交易を結ぼうとしていましたが、日本側に拒否されていました。

察度 (さっと) 王の時代 (1349ー1394年) →
中国島では元 ~ 明、朝鮮半島では王氏高麗 ~ 李氏朝鮮、日本列島では南北朝時代 ~ 室町時代、非常に重要な分岐点でした。

伊敷賢 著 (琉球王国の真実) には、通説とは異なる内容になっていますが、中山国 (浦添城) と 南山国 (大里城) の関係性について。少し気になる文が記載されていました。それによると、察度王の母親・天女は実在した人物で本当の名前は「真銭金」という玉城 (たまぐすく) 出身の女性と記載。
*玉城は南山国の領地
英祖王統の3代・恵慈王 (英慈王) の四男である玉城 (たまぐすく) が19歳の若さで4代・玉城王として即位しました。

察度王の母親は「天女 (真銭金) 」で、父親の名前は奥間大親 (うくまウフヤ) という人でした。


4代・玉城王と察度王の母親・天女 (真銭金) は兄弟。
英祖王統の5代・西威王と察度王統の初代・察度王は従兄弟 (いとこ) になるといいます。

あの時 →https://asakobonobulogu.ti-da.net/e7040813.html
察度王の母親・天女 (真銭金) に帰ったのではなく、玉城 (たまぐすく) に帰っていました。

その後、察度王の父親・奥間大親 (うくまウフヤ) は又吉娘という女性と再婚して、察度王の異母弟・泰期が生まれていました。

ー(・・? ー?→

話は複雑しますが、
再婚したのは、察度王の父親・奥間大親 (うくまウフヤ) だけではなく ⇔ 察度王の母親・天女 (真銭金) も再婚していました。また、昔の人は幼名、老名、死後の名前、職名、あだ名など‥ 複数の名前を持っており、 察度王の母親・天女 (真銭金) の神職名は『多和田ヌル』であったようです。
*ヌルは「神女 / 祝女 (ノロ / ヌル) 」という神職の名前です。

察度王の母親・天女 (真銭金) = 多和田ヌル

中山国察度王の母親・天女 (真銭金) = 多和田ヌル は、南山国の王・大里按司 (うーじゃとぅあじ) と再婚していました。 
南山国の初代・大里王の長男・大里王子 てんびん座 次男・汪英紫でありました。
南山国の2代・大里 王の「弟」が汪英紫 (ウーえーし)  ⇔『子』が承察度 (ウフさとぅ) 

2代・大里 王が亡くなると ⇔ 王の「弟」と『子』の間で王位継承権争いが起き、形勢が不利になった 承察度王子は、朝鮮半島の晋陽に亡命していました。


ー?→

その時なぜか?‥
中山国察度王が、朝鮮半島に亡命した南山国承察度王子が沖縄島に帰ってくるよう、朝鮮半島に手紙を送っていました。

どうして?‥ 
中山国察度王が、別の国 (南山国) の王子・承察度心配をするのか? 疑問に思っていましたが、伊敷賢 著 (琉球王国の真実) の内容が事実だとすると? そういう事だったのか!‥ と、納得部分もあります。

察度の異母弟・泰期はの史書 (明朝実録) に記され てんびん座察度王の異父おい子・ 承察度(ウフさとぅ) 李朝実録 (朝鮮半島史記) に載っています。

異母兄弟 ⇔ 異父兄弟 → 甥の関係。

注意 上記の家系図は↑伊敷賢 著 (琉球王国の真実) に記載されており、通説とは異なる部分も多々ありますが、王府史記にも、中山国 (英祖王統) の4代・玉城王は南山国の領地・玉城 (たまグスク) から都上した人物、南山国の初代・大里按司は中山国英祖王の五男と記載されている事から、中山国南山国は別の国であるけど、何らかの血縁関係があったように思われます。

中山国察度王の異母弟・泰期 (たいき) は那覇に小禄城 (うるくグスク) てんびん座 察度王の異父甥・汪応祖 (ウーうふす) は南山国に豊見城 (とよみグスク) を築城し、警戒し合っていたようです。
汪応祖南山国の3代・汪英紫の子で てんびん座 朝鮮半島に亡命した承察度(ウフさとぅ) 王子の従兄弟。

豊見城 (とみグスク) の語源は汪応祖が築城した鳴響 (とよみ / 豊見) グスクを由来しているようです。

ご迷惑をおかけします 今日では ご迷惑をおかけします
地名になっているため「豊見城城跡地」「城 (グスク) 城 (じょう) 」と重複表記されていますが、当時は豊見城 (とよみグスク) という城 (グスク) であったようです。

豊見城の城主・汪応祖ハーリー (爬龍船競漕) を沖縄に普及させたと云われています。https://ja.m.wikipedia./豊見城市

文献によつて、
汪応祖 (ワンおうそ) 、汪応祖 (ウーうふす) 、汪応祖 (ヤフス) など。記載されています。https://ja.m.wikipedia./汪応祖

爬竜(ハーリー)は、
毎年旧暦の5月4日に沖縄県各地の漁港で行われる爬竜船(はりゅうせん)競漕とその祭り。爬竜船(はりゅうせん)を漕ぎ競い合うことで航海の安全や豊漁を祈願する。糸満では「ハーレー」と呼ぶ

https://ja.m.wikipedia./爬竜

那覇ハーリーは「祭り」←「行事」、
糸満ハーレーは『晴れ』←『願事』。

糸満ハーレーが終わると梅雨明けと云われています。

最期の南山 (大里) 王・他魯毎 (たるみー) は、汪応祖の子。

他魯毎 (たるみー) 王は尚巴志に亡ぼされます。

糸満市の山巓毛 (さんてぃんもー) という所に他魯毎 (たるみー) 王のお墓があります。

https://ja.m.wikipedia./他魯毎



ダンプカー―…ご迷惑をおかけします―…ご迷惑をおかけします工事中

(・・; それがどうした;
内容になっておりますが;
察度 (さっと) 王の時代 (1349ー1394年) →
中国島では元 ~ 明、朝鮮半島では王氏高麗 ~ 李氏朝鮮、日本列島では南北朝時代 ~ 室町時代、非常に重要な分岐点でした。

また、察度 (さっと) 王の父親・奥間大親 (うくまウフヤ) は、日本史でも琉球史でも、あまり表舞台には出て来ない「金 (カニ / 鉄類)」に関する勢力とも深縁があります。

そうした鉄資源も沖縄方面には非常に乏しいのですが 長音記号2 何処ドコと結び付いていたのか? 察度 (さっと) 王の時代は とても重要な分岐点になっているけど、その生誕記録が『おとぎ話』ように塗り替えられているのはなぜか? など。深読みすると 長音記号2 水面下の商業史 ← ある海商たちと結び付くように思えて来ました。

中山国英祖王の時代に、

1度目の文永の役(1274年)、2度目の弘安の役(1281年)という元寇 (蒙古襲来) が起きていました。
https://www.asaobo.jp/blog/1346
カゼ 薄うす感じる事;

ダンプカー―…ご迷惑をおかけします―…ご迷惑をおかけします工事中

また 長音記号2 結び付けて見ようと思います。

―  →晴れ →

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