2020/08/14
… 毎度事ですが →
この度ブログも、たいへんマニアックで見る方は疲れる内容になっております。
主点は琉球史の前身。それは、水面下の商業史と考えております。そうした『水面下の商業史』を知ると、思いがけない世界と結び付き 今後の人生 新たな視点が芽生えて来るかもしれません
ー↓─━─扉─━─↓ー
遠い おじさんは怒りました。
いつまでも『ひねくれて』いないで 早く沖縄島に帰ってこい
おい子は帰りたくない‥ と朝鮮半島に残りました。
ー(・・? ー?→
南山国では、汪英紫 (ウーえいし / 叔父) の勢力が承察度 (ウフさとぅ / 甥) を圧倒し、ついに承察度は汪英紫の迫害に抗しきれず、朝鮮国に亡命するという事件があった。
そうした整備期間中
中山国・察度王統 南山国・大里王統ともに、尚巴志 (第一尚氏王統) に亡ぼされます。
中山国 (浦添城) と 南山国 (大里城) は天日子 (てだこ) の町 中山国は世子 (長男) や次男・正室の子 > 南山国は王子 (三男) や四男・側室の子、など。王家の「本流」と『庶流』の関係にあったようです。https://www.asaobo.jp/blog/1734
ー↓─━─扉─━─↓ー
1299 (元の大徳3) 年8月5日
中山国 (浦添城) では天日子 (てだこ / 英祖王) が71歳にして亡くなる。
… 通例では →
王の世子 (長男) や王子 (次男) が王位に就く場面ですが、四男である玉城 (たまぐすく) が19歳の若さで4代・玉城王として即位しました。https://ja.m.wikipedia./英祖王統
英祖王統の4代・玉城王は、王位に就く前は南山国の玉城 (たまグスク) 間切を領地としていましたので、南山国出身の人が中山国の王様になっていた事になります。
*庶流の王
…王府史記によると →
英祖王統の4代・玉城王が酒色に溺れたため、琉球国は三山国 → 3つ国に分別、再び疫病が流行、政治も不安定な世を迎えた。
4代・玉城王が亡くなると、10歳の西威王が誕生するも、5代・西威王は政治の事がまだ解らなかったので、西威王の母親であり玉城王の妻である思樽 (うむたる) が政治を行う。 思樽 (うむたる) は、政治を私物化し世はさらに乱れた‥
↑と、王府史記。
↑そのとき?
察度 (さっと) 王は「姉と弟」二人兄弟で、母親は空高く天に飛んで行きました。
ー!?→
(・・! ところが?!
王府史記には、突如として察度王の弟・泰期 (たいき) が登場します。
泰期 (たいき) は察度王の異母弟で、明の史書 (明朝実録) にも記載される実在人物です。https://ryukyushimpo.jp/okinawa-dic/prentry-41942.html
↑その中で登場する明朝の招諭使・楊載 (ようさい) は来沖前、日本 (九州島) を訪れ、交易を結ぼうとしていましたが、日本側に拒否されていました。
察度 (さっと) 王の時代 (1349ー1394年) →
中国島では元 ~ 明、朝鮮半島では王氏高麗 ~ 李氏朝鮮、日本列島では南北朝時代 ~ 室町時代、非常に重要な分岐点でした。
察度王の母親は「天女 (真銭金) 」で、父親の名前は奥間大親 (うくまウフヤ) という人でした。
あの時 →https://asakobonobulogu.ti-da.net/e7040813.html
察度王の母親・天女 (真銭金) は天に帰ったのではなく、玉城 (たまぐすく) に帰っていました。
その後、察度王の父親・奥間大親 (うくまウフヤ) は又吉娘という女性と再婚して、察度王の異母弟・泰期が生まれていました。
ー(・・? ー?→
話は複雑しますが、
再婚したのは、察度王の父親・奥間大親 (うくまウフヤ) だけではなく ⇔ 察度王の母親・天女 (真銭金) も再婚していました。また、昔の人は幼名、老名、死後の名前、職名、あだ名など‥ 複数の名前を持っており、 察度王の母親・天女 (真銭金) の神職名は『多和田ヌル』であったようです。
*ヌルは「神女 / 祝女 (ノロ / ヌル) 」という神職の名前です。
察度王の母親・天女 (真銭金) = 多和田ヌル。
2代・大里 王が亡くなると ⇔ 王の「弟」と『子』の間で王位継承権争いが起き、形勢が不利になった 承察度王子は、朝鮮半島の晋陽に亡命していました。
ー?→
その時なぜか?‥
中山国の察度王が、朝鮮半島に亡命した南山国の承察度王子が沖縄島に帰ってくるよう、朝鮮半島に手紙を送っていました。
どうして?‥
中山国の察度王が、別の国 (南山国) の王子・承察度の心配をするのか? 疑問に思っていましたが、伊敷賢 著 (琉球王国の真実) の内容が事実だとすると? そういう事だったのか!‥ と、納得部分もあります。
*察度王の異母弟・泰期はの史書 (明朝実録) に記され 察度王の異父おい子・ 承察度(ウフさとぅ) は李朝実録 (朝鮮半島史記) に載っています。
上記の家系図は↑伊敷賢 著 (琉球王国の真実) に記載されており、通説とは異なる部分も多々ありますが、王府史記にも、中山国 (英祖王統) の4代・玉城王は南山国の領地・玉城 (たまグスク) から都上した人物、南山国の初代・大里按司は中山国・英祖王の五男と記載されている事から、中山国と南山国は別の国であるけど、何らかの血縁関係があったように思われます。
豊見城 (とみグスク) の語源は汪応祖が築城した鳴響 (とよみ / 豊見) グスクを由来しているようです。
… 今日では →
地名になっているため「豊見城城跡地」「城 (グスク) 城 (じょう) 」と重複表記されていますが、当時は豊見城 (とよみグスク) という城 (グスク) であったようです。
豊見城の城主・汪応祖がハーリー (爬龍船競漕) を沖縄に普及させたと云われています。https://ja.m.wikipedia./豊見城市
文献によつて、
汪応祖 (ワンおうそ) 、汪応祖 (ウーうふす) 、汪応祖 (ヤフス) など。記載されています。https://ja.m.wikipedia./汪応祖
爬竜(ハーリー)は、
毎年旧暦の5月4日に沖縄県各地の漁港で行われる爬竜船(はりゅうせん)競漕とその祭り。爬竜船(はりゅうせん)を漕ぎ競い合うことで航海の安全や豊漁を祈願する。糸満では「ハーレー」と呼ぶ。
那覇ハーリーは「祭り」←「行事」、
糸満ハーレーは『晴れ』←『願事』。
糸満ハーレーが終わると梅雨明けと云われています。
最期の南山 (大里) 王・他魯毎 (たるみー) は、汪応祖の子。
他魯毎 (たるみー) 王は尚巴志に亡ぼされます。
糸満市の山巓毛 (さんてぃんもー) という所に他魯毎 (たるみー) 王のお墓があります。
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(・・; それがどうした;
内容になっておりますが;
察度 (さっと) 王の時代 (1349ー1394年) →
中国島では元 ~ 明、朝鮮半島では王氏高麗 ~ 李氏朝鮮、日本列島では南北朝時代 ~ 室町時代、非常に重要な分岐点でした。
また、察度 (さっと) 王の父親・奥間大親 (うくまウフヤ) は、日本史でも琉球史でも、あまり表舞台には出て来ない「金 (カニ / 鉄類)」に関する勢力とも深縁があります。
そうした鉄資源も沖縄方面には非常に乏しいのですが 何処ドコと結び付いていたのか? 察度 (さっと) 王の時代は とても重要な分岐点になっているけど、その生誕記録が『おとぎ話』ように塗り替えられているのはなぜか? など。深読みすると 水面下の商業史 ← ある海商たちと結び付くように思えて来ました。
中山国・英祖王の時代に、
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また 結び付けて見ようと思います。
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