2021/08/07
その2お話 では、
13世紀頃、モンゴル人の兄弟と身内がユーラシア大陸の大半を支配し、商業網を築いたこと。その源泉にはペルシア的な手法が見られた事について考えてみました。
… もう一度 →
おさらい →
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【時の中国政府は元朝】
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5つモンゴル帝国が東洋と西洋の商業ネットワークを結び付けた事 それはあまり目立たないけど、その事を知るのは今日の世界情勢とか? とても大切に思えて来ました。
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(・・? モンゴル? いうと?
外モンゴル、内モンゴル、遊牧民? お相撲さん? 8百? あまり世界的な物とは結び付きませんが、
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今日のモンゴル人いうと?
外モンゴルと内モンゴルの住む人々を思い浮かびますが ⇔ それだけではなく、13世紀は5つモンゴル帝国の継承国家や人々は今日でも世界のあちこちに多数存在しているといいます。
… 例えば →
キプチャクハン朝 (モンゴル帝国) には、その昔、ペルシア系の人々が住み → しだいにテュルク系のキプチャク族が住むように。後ほど13世紀にチンギスハンの長男・ジョチのウルス (所領) になったといいます。
*ジョチウルス→キプチャクハン朝
キプチャクハン朝 (モンゴル帝国) の
10代皇帝・ウズベクハン はイスラム教徒になったといいます。
実際のウズベキスタンにはテュルク系の民族が多数を占め、ウズベクハン (モンゴル皇帝) に倣ってイスラム教徒になったウズベク (モンゴル) 人たちもテュルク系民族に同化。← その同化手法は古代のペルシア帝国 (アケメネス朝) を由来しているように思います。
そのほか、
同じくテュルク系の民族が多く住むトルクメニスタン、ペルシア系のイスラム教徒・タジク人が多く住むタジキスタン、
アフガニスタンは、
「アフガン (山の民) 」+「スタン (国・地方)」で「アフガン族の国(山の民の国)」という意味。
パキスタンは、
インド的でペルシア的、モンゴル的な文明と縁ある国であるようです。← その昔、パキスタンの地にはモンゴル帝国の復活を目指すムガル帝国 があったと云われています。
ムガルはペルシア語のムガル (←モンゴル) を意味し、ムガル帝国 (←モンゴル帝国) の復活を目指す国がパキスタンの地にあった? いいます。
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内容は複雑していますが、
昔の文献では「オゴタイハン国 / オゴタイハン朝」等と表記されていたけど、今日では『オゴデイウルス』に。
モンゴル視点では
キプチャクハン朝 (長男の所領) → ジョチウルス、チャガタイハン朝 (次男の所領) → チャガタイウルス、オゴタイハン朝 (三男の所領) → オゴデイウルス、イルハン朝 (孫の所領) → フレグウルスという表記が正しい。といいます。
(・・? 詳しくは解りませんが?
モンゴル語のウルスはテュルク語の地域や都市を意味するウルシュを語源とされ、ウルスは組織 (チーム) ではなく集団 (グループ) 。
モンゴル帝国には全体を統治する中央政府はなく、多数のウルス (所領) の集合であった。また、ウルスは西洋的な領地と領民がSetになった国家観とは異なり、「領地」を失っても『領民』を失っていなければウルス (所領) は存在する。遊牧的な風習をしていたようです。
モンゴル帝国は当時は「大モンゴル=ウルス」つまり「大モンゴル国」と言われていたが、やがて領土が子や孫に分与されると、それぞれが「ウルス」として分離し、モンゴル帝国はウルスの連合体という形態となった。後の中国を支配した元も正式には大元ウルスといった。
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日本でも お馴染み →
2者は協力関係にあったので ユーラシア大陸の東西で商業網が整備。という経緯もあったようです。
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アフガンハウンド はアフガニスタンの犬で、世界最古の犬と云われています。
そのアフガンハウンドはサルーキ (ペルシアハウンド) の改良犬で、アフガニスタンの山 (寒冷な高地) を原産地としているようです。
… 今日では →
モンゴル? アフガニスタン? 多くの人々の関心を忘れられているけど 東洋と西洋の商業ネットワークの非常に重要な役割をしていた (いる) 地とも云われています。
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石 (いし) から生まれた孫悟空の生い立ちから始まる。天界から追放されて500年後、三蔵法師・玄奘 (げんじょう)、沙悟浄 (さごじょう)、猪八戒 (ちょはっかい) との出会いを経て天竺 (インド) への取経の旅をするという冒険活劇。旅中に遭遇するさまざまな厄難とそれに伴う三蔵一行の絆や成長を描く1時間の連続特撮ドラマ。
そのエンディング曲は ♪
ゴダイゴ (歌手) の『ガンダーラ』
(・・? 今では? !
ガンダーラ地方 (ペシャワル地域) いうと?! イスラム教国になっているけど、古くは仏教の聖地で、ペルシア文明とインド文明、ギリシャ文明の 交差点 になっており、日本の本格的な国家体制にも多大な影響を与えていたようです。
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三蔵法師・玄奘 (げんじょう) は、
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玄奘が帰国した645年といえば!?
日本初の元号は『大化』
645年 (大化元年) ~ 本格的な国家体制 ≒ 律令制の整備が始まっています →
―(・・! ―?!→
石 (いし) から生まれた孫悟空!?
飛鳥時代は仏教文化 / 石文化が普及した時代で、
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残念ながら、
ー 関連情報 ー
ー→
ところで?!
桃の原産地は中国と云われていますが、桃を『E欧』に普及させたのはペルシア系のソグド商人であったので、ラテン語 → 英語では、桃 (Peach / ピーチ) 。その学名は Amygdalus persica 語源はペルシアを由来としているようです。
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ある本には、
西遊記のモデルとなった実在人物・玄奘 (げんじょう / 三蔵法師) の通訳を勤めたペルシア系のソグド商人は 石 (いし) から生まれた孫悟空のモデルで西突厥国はソグド地方のオアシス都市・石国 (タシケント) 出身の祆 (ゾロアスター) 教徒では? 載っていました。
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【石国】中央アジアの古都タシケント(現在はウズベキスタンの首都)の隋・唐代の中国名。シルダリア上流のオアシスに位置する。
ー 石国 / タシケント ー
隋・唐の時代(6~10世紀)に中央アジアに君臨した西突厥「石国」など・・・名はチャーチ(転じてシャーシ)の音訳、オアシスを中心とする都市国家の呼称。13世紀ごろから、この都市はタシケント(トルコ語で「石の都市」の意)と呼ばれるようになった。唐代の石国というのもタシケントの訳語。タシケントは古代はイラン系民族の住地で、7世紀からトルコ人(西突厥)の勢力下に入り、この地を訪れた玄奘の『大唐西域記』にも記録されている。10世紀にはサーマーン朝、カラ・ハン朝の領域に入って、しだいにトルコ・イスラム化し、13、14世紀にはチャガタイ・ハン国領、15世紀にはティームール帝国領となり、以後、タシケントの都市名が定着し、明朝では「達失干」と書かれた。16世紀以降、オイラート人、ウズベク人、カザフ人の争奪地となり、18世紀後半にはカザフ人を撃退したコーカンド・ハン国領となった。このころ、タシケントは商業の要地となり、ロシア人、カザフ人、コーカンド人が物資を集散した。19世紀後半、帝政ロシアに征服され、シルダリヤ中流域の行政・経済の中心となった。[佐口 透]
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… もう一度 →
石 (いし) から生まれた孫悟空!?
飛鳥時代は仏教文化 / 石文化が普及した時代で、
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(・・; 毎度こと;
内容はごちゃごちゃしていますが、
ウズベキスタンの語源は、
キプチャクハン朝 (モンゴル帝国) の
10代皇帝・ウズベクハンを由来し、彼はイスラム教徒になったといいます。
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