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第6回 前の国 と 後ろ国

その日は、春だというのに大粒のアラレが降り続いてたという。

それまで一心同体の関係にあった豊臣秀吉千利休 てんびん座 しだいに秀吉は、利休に切腹を命じるほど、2人の関係は悪化して行き、千利休が切腹した日は大粒のアラレが降り続いていた。いいます。


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1585 (天正13) 年に行われた 「禁裏御茶湯」 の茶会で羽柴秀吉 (後の豊臣秀吉) は事実上の天下統一という関白任命式が催され、藤原秀吉という名前に。

その翌年、
藤原秀吉は『太政大臣』に任命され、正親町 (おうぎまち) 天皇より『豊臣』という名前を与えられていました。

秀吉の『』は『太政大』を意味し。相棒の千利休も「千宗易」という名前であったけど、秀吉とともに参加した茶会で、正親町天皇より 「利休」 と号され『千利休』という名前になっていたようです。

羽柴秀吉 → 藤原秀吉 → 豊臣秀吉、
千宗易 → 千利休に。

その時まで、
秀吉と利休は一心同体の関係であったけど てんびん座 その6年後、秀吉は利休に切腹を命じるほど二人の関係は悪化していました。

注意 その説について
十人十色の説ありますが、豊臣秀吉の東へ小田原征伐 ⇔ 西へ唐入り (朝鮮出兵) 。2つ出来事と関係しているとも云われています。

1590 (天正18) 年に豊臣秀吉は天下統一の総仕上げとして小田原の北条氏 (後北条氏) 征伐を行いましたが、小田原城に仕えていた千利休の愛弟子 (まなでし) の山上宗二が亡くなったという。

山上の「」も (千利休) の「」で、 が豊臣秀吉に耳や鼻を斬られた上、残酷な殺され方をした事を端緒 (糸口) に、千利休は豊臣秀吉に対する嫌悪感を態度で見せるようになったといいます。

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E4%B8%8A%E5%AE%97%E4%BA%8C

ー・→

利休の死後、
秀吉は「昨日は、利休の流儀で茶会を催し、利休を思い出しつつ茶を飲みました」という手紙を母に送ったり、家臣に対しては『伏見城 (桃山城) は利休の好むような設計で建てよ』という書状を出していたという。

利休没後、堺の町は衰亡し、秀吉の威光も見る間に衰えて行き、利休の死後から24年‥ 「お茶」 と深く通づ事件が起きた。

千利休は度々、徳川家康と茶会を催していた事も豊臣秀吉は快く思っていなかった というも見られます。
本能寺の変とき、
千利休ら茶頭3人とともに お茶 徳川家康は和泉国の堺で茶会を開いていたとも云われています。

ー(・・? ー?→

千利休 (せんのりきゅう) は、
和泉国の堺で生まれ、臨済宗大徳寺派の禅僧であると同時に茶人 (芸術家) → 茶道の源泉者と語られています。

千利休が歴史の表舞台に登場するのは、織田信長に茶頭として大抜擢された1572年前後のこと。

ご迷惑をおかけします 茶頭とは ご迷惑をおかけします
信長が作った職制に組み込まれない役職で、接待のため 「お茶会」 を開く役人。織田信長は『茶の湯』を政治に利用 → 豊臣秀吉の時代に全盛期に。云われています。

詳しくは解りませんが、
『茶の湯』は今でいう政治資金パーティーや多方面からの情報収集 / net 網? 役割をしていたように思います。

千利休の里・和泉国堺は中央政府と距離を置く租界地で、自由経済の国際的な自治都市 → 会合衆 (エゴウしゅう) が権力を持つ商人都市。利休の父親は商人たちの会合衆のリーダーになっていたようです。

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%9A%E5%90%88%E8%A1%86

―・→

茶の湯は政治の道具として、
「織田信長と千利休」関係  ~『豊臣秀吉と千利休』関係に進みます →

豊臣秀吉は織田信長の政治を継承し。その後、豊臣秀吉と千利休は一心同体の関係に てんびん座 千利休が存在しなかったら、豊臣秀吉は天下人にはなれなかった。云われるほどです。

―・→

△ 天下人となって行く秀吉、
人の上に立つほど、猜疑心も高まって人を信用できづ、まわり人々の意見を聞き入れなくなり、側近である千利休の意見も不敬だと思うようになったと云い。利休が秀吉に対して、意図的に不敬な態度を示すようになった事件が、まな弟子である山上宗二が残酷な殺され方をした事を端緒 (糸口) に。云われています。

その時期は、
豊臣秀吉による東に西に政策 → 
東に小田原征伐 ⇔ 西に唐入り (朝鮮出兵) に関する政策時期で、自分の意に反する対意見を徹底的に廃し、豊臣政権は成れの果て姿を見せるように? との声も見られます。
中央集権体制の始まり?はてなマーク


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– 地方分権 と 中央集権 –

(・・? もともと?
豊臣秀吉の師である織田信長と和泉国は堺の自治都市との関係もライバル関係 → 持ちつ持たれつ関係にありましたので、天下人へと登り行く秀吉と利休の関係悪化も自然の流れ? あったようにも思います。

どちらかというと?
自治都市は『地方分権』タイプ、
   ⇔
織田信長 → 豊臣秀吉が目指す政治は「中央集権」タイプ? 見えます。

中央集権体制を目指す織田信長 → 豊臣秀吉と ⇔ 地方分権タイプの和泉国の堺 (自治都市) ?

(・・? もともと?
目指すゴールが異なる『持ちつ持たれつ関係』にあったようにも思います。

―(・・? ―?→

 – 政治家 と 芸術家 –
政治家は上の代表で ⇔ 芸術家は下の代表に。政治家芸術家は相反する関係にあるけど、政治家芸術家を利用して上に立ち てんびん座 芸術家政治家の力を借りて成立する。持ちつ持たれつ関係にあったという。

政治家 (豊臣秀吉) と 芸術家 (千利休) も、一心同体ような持ちつ持たれつ関係にあり、芸術家 (千利休) の力を借りて階段を登った豊臣秀吉 ⇔ 政治家 (豊臣秀吉) の力を利用して注目を集めた千利休。経緯もあったと思います。

豊臣秀吉は全国制覇を目指し、中央集権タイプの政治家になって行きます →


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豊臣秀吉の師である織田信長は、
天下人になる一歩手前とき、朝廷より「太政大臣関白征夷大将軍』←  3つの官職うち ⇔ どちらが良いか? 問われ、無解答まま亡くなったと云われています。

太政大臣関白」は公家的
   ⇔
征夷大将軍』は武家的

地位的には、
太政大臣 > 関白 > 征夷大将軍

豊臣秀吉は、
武家的な官職・征夷大将軍ではなく、公家的な官職・関白 → 太政大臣となり、天下人を目指していたようです。

―?→

また一説によると、
豊臣秀吉は身分の低い出で、天皇家との血筋が関与する『征夷大将軍』という称号を得る事は、関白太政大臣の位よりも難しい事だったとも云われています。

征夷大将軍の武家 → 鎌倉幕府の源頼朝・室町幕府の足利尊氏。2者とも、清和源氏 / 清和天皇の子孫 (血筋) を持っていました。

官位は太政大臣  征夷大将軍
   ⇔
血筋は征夷大将軍  太政大臣

そのため、
徳川家康は「天下取り」以上に『征夷大将軍』という称号を得る事に、もっとも苦労したと云われています。

天皇家との血筋が関与する『征夷大将軍』という称号について 目 思い出して見ました 目



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その昔、
桓武天皇の子孫 → 清和天皇の子孫・源義国 (源氏) は、下野国足利荘 (いま栃木県足利市) に住んでいました。

引き続き → 源義国の次男・源義康も下野国足利荘 に住み、その地名から足利義康と名乗り てんびん座 源義国の長男・源義重はとなりの上野国新田荘 (いま群馬県太田市) に住み、その地名から新田義重と名乗るようになったといいます。


足利家も新田家も源氏 (清和天皇) の家柄 (血筋)

礼的 → 儒教的な視点では、
次男足利家よりも長男新田家の家柄 (血筋) が高位にあったので、徳川家康は上野国の新田家より源氏の系図を作成してもらったと云われています。

ご迷惑をおかけします 伝承によると ご迷惑をおかけします
徳川家康の祖先・徳阿弥は、上野国新田徳川郷で生まれ。後ほど、一遍上人が開いたと云われる時宗の門徒になり全国各地を遊行するうち、三河国賀茂松平郷にたどり着き定住。その地で生まれた徳川家康も源氏の血をひく徳阿弥の子孫。という伝承です。

徳阿弥は、室町時代に登場する観阿弥世阿弥親子と同じ てんびん座 時宗系の同朋衆 (どうぼうしゅう ≒ 阿弥衆) でもあったと云われています。

 https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E5%B9%B3%E8%A6%AA%E6%B0%8F

徳川家康のフルネームは、
徳川次郎三郎朝臣家康 (とくがわじろうさぶろうみなもとのあそんいえやす) → 源氏

織田信長のフルネームは
織田弾正忠朝臣信長 (おだだんじょうのちゅうたいらのあそんのぶなが) → 平氏

注意 実際ところ
徳阿弥は架空の人物で オバケ 上野国の新田家 (源氏) と 一遍上人が開いたと云われる時宗の協力を得て『源氏 (清和天皇の血筋』となり、1603年に正親町 (おうぎまち) 天皇より『征夷大将軍』の称号を得て、江戸時代が始まります →


https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%81%E5%A4%B7%E5%A4%A7%E5%B0%86%E8%BB%8D

―?→

(・・? 不思議お話?はてなマーク
徳川家康に征夷大将軍 (官位) を与えた正親町 (おうぎまち) 天皇いえば!? 豊臣秀吉と千利休の命名者で、北朝系の天皇だけど ⇔ 徳川家康の祖先・徳阿弥南朝側の源氏 (新田家) になるので、徳川家康も南朝側の源氏になるようです。

下野国の足利家 (源氏) は室町幕府を開き ⇔ 上野国の新田家 (源氏) は対立関係にありました。


ご迷惑をおかけします ある方ブログによると ご迷惑をおかけします
徳川家康が公家的な官職・関白 → 太政大臣よりも ⇔ 武家的な官職・征夷大将軍に重きを置くようになったのは、幼い頃の人質生活に端を発していると載っていました。

竹千代 (徳川家康) は幼い頃、
足利家 (北朝) の分家である今川家 (北朝) のもと、駿河国で人質生活を送っていました。そのとき、今川家の軍師である太原雪斎 (たいげんセッサイ) が竹千代 (徳川家康) の家庭教師を努めたといいます。


https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%AA%E5%8E%9F%E9%9B%AA%E6%96%8E

太原雪斎は臨済宗の禅僧で、その雪斎が持っていた大量の書物で竹千代 (徳川家康) は勉強 → 政治力を身に付けたと云われています。 


―?→

徳川家康は1603年に正親町 (おうぎまち) 天皇より『征夷大将軍』の称号を得て江戸時代が始まります。が ⇔ 徳川家康は将軍職を辞した後に『政治力を発揮した』云われています。

徳川家康は1605年に徳川秀忠に将軍職を譲って てんびん座 自身は駿河国の駿府城で政治を行う。江戸城には2代将軍・徳川秀忠 てんびん座 駿府城には徳川家康が住まい、江戸城よりも < 駿府城の方が政治力を持っていた。その後、政治力を発揮した徳川家康は「公家諸法度」『武家諸法度』といった朝廷の政治力や地方武士の政治力を「統制政策』を整備し、1616年に太政大臣となってすぐ亡くなった? ようです。

―(・・? ―?→

前回お話」と『今回お話』てんびん座  時代はダイブ飛んでおりますが、7世紀は日本史の始点時代 ~

古代も中世も近世も 自転車 歴史を繰り返しているように思う事があります →

そのカギを持つのは?
豊臣秀吉の師である織田信長は、和泉国は堺の千利休茶頭として『持ちつ持たれつ関係』を築いていた事です。

ご迷惑をおかけします 前回お話 ご迷惑をおかけします
温州みかんの発祥地は薩摩国の長島で、その長島は肥後国に属していた時代もあり、薩摩と肥後 てんびん座 2つ文化を持ち 長音記号2 海外との結び付きもあったと云われています。
今日の長島出水郡長島町という住所に。

目 出水郡の「出水 (いずみ) 」は てんびん座
和泉国の『和泉 (いずみ』と縁ある名前にも見えます 目


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中央集権体制を強化する豊臣秀吉は、南九州平定後、バテレン追放令という天主教を封印する法案を出していました。その法案に反発していたのが 爆弾 高槻城主・高山右近で てんびん座 加賀国の前田利家が高山右近を保護していたようです。

天主教徒の高山右近は、千利休の『7弟子』1人に数えられる人物で、その居城は摂津国三島郡高槻村という住所になっていたようです。
右近の里は三島の里です。

 
ご迷惑をおかけします 第3回お話 ご迷惑をおかけします
三島の里について →


(・・? 田方の里は三島の里はてなマーク


―?→

(・・? 伊豆国田方郡に阿波の忌部氏?

―?→

(・・! 高山右近の父さんは?!
阿波国の戦国大名・三好氏に仕えていました。

その三好氏細川氏に仕えていました。

細川氏は摂津国・和泉国・阿波国・肥後国に接点を持つ管領で 長音記号2 阿波国の阿波踊りも肥後国のハイヤ節を源泉 (細川氏を経由して) と云われています。

―?→


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内容は飛んでいますが、
細川氏に仕えていた三好氏 / 三好3人衆 は和泉国堺の人々とともに信長包囲網を築いていたようです。


ご迷惑をおかけします 戦国時代 ご迷惑をおかけします

和泉国堺と南九州で活動していた雑賀衆は一向衆であると同時に鉄砲衆で。その鉄砲は海外由来。との事。

注意 その説について
十人十色の説ありますが、千利休は仏教徒 (禅僧) であると同時に てんびん座 天主教徒でもあった? 説もあります。

その茶室の入口は お茶
腰に刀を刺したままでは入れないほどの狭さで、それは『広き門よりも狭き門より入りなさい』という天主の教えであった? との事。

千利休の愛弟子 (まなでし) の山上宗二は、小田原の後北条氏に仕える前は、加賀国の前田利家に仕えていたと云われています。

まな弟子の山上宗二が豊臣秀吉によつて、残酷な殺され方をした事を端緒 (糸口) に、千利休は豊臣秀吉に対する嫌悪感を態度で見せるようになったといいます。

千利休が大成した茶の湯は「ワインとパン」を『お茶と小麦粉』に置き換えた天主教の「ミサ (聖餐) の儀式』と似ている? との お話も見られます。

千利休の愛弟子 (まなでし) の山上宗二は、小田原の後北条氏に仕える前は、加賀国の前田利家に仕えていたと云われています。
* 前田利家は高山右近を保護した人物?

―?→

1587 (天正15) 年、
https://kotobank.jp/word/%E4%B9%9D%E5%B7%9E%E5%BE%81%E4%BC%90-52053
九州征伐

1590 (天正18) 年、
https://kotobank.jp/word/%E5%B0%8F%E7%94%B0%E5%8E%9F%E5%BE%81%E4%BC%90-40546
小田原征伐

―?→

さつま芋を江戸に普及させた青木昆陽は、薩摩から前田利右衛門の『リエモン芋』を。

(・・? なんとなく?
前田 → 利? という名前も気になります。

さつまいも原産地は『南米大陸』で、天主教徒のポルトガル商人やスペイン商人が中国は広州のマカオに普及させた? 云われています。



竹。。


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