昔んかし、
浦添村の伊祖 (イズ / いそ) に恵祖世主 (ヱスぬユぬヌシ) と呼ばれた男が住んでいました。*エ (え) → ヱ (ぃえ / ゑ) 、祖 (ソ) の沖縄音は 祖 (ズ) です。
恵祖世主は高齢にて結婚し「刀自 (とぅじ / 妻) 」といっしょに浦添村の伊祖でひっそりと暮らしていました。
.二人はずっと子供が欲しいと思っていましたが、なかなか子宝に恵まれません。
ある日

刀自 (とぅじ / 妻) は太陽の日射しを避けるため

木陰で休憩 (なかゆくい) をしているうち
眠気に誘われ
眠りにつきました。
.
しだいに

天日 (テダ / 太陽) の日射しが木陰まで伸びて来て →
.
.
すると!!たちまち、お腹が温かく膨らみ、玉のやうな天日子 (てだこ / 太陽の子) が生まれてきました。
.
その後、
熱い
と思い、刀自は目を覚ましました!残念ながらそれは、夢でした。
.ところが、その夢を見た後、刀自 (とぅじ) は本当に妊娠して待望の子が生まれてきました。そして、その子の名前を
英祖 (
イーズ) と名付けました。
*1229年、鎌倉時代お話です。. (・・? ?
英祖 (えいそ) の沖縄音は英祖 (イーズ) 。.英祖が生まれたのが浦添村の伊祖で、父親の名前はわかりませんが、回りからは恵祖世主 (ヱ
スぬユぬヌシ) と呼ばれていました。伊祖 (イズ) の恵祖 (ヱス) に英祖 (イーズ) 、世襲制の時代でありましたから、似たような名前をつけたと思われます。
.
英祖は天日 (テダ / 太陽) の夢を見て生まれてきたので『天日子 (てだこ) 』と呼ばれ、すくすくと成長しました。
.
.
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ー↓─━
─扉─
━─↓ー .
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.
浦添村伊祖のとなり部落 →
浦添村仲間には、
浦添城という
中山国の王が住む城 (グスク) がありました。
.ー・→
.1237年
中山国 (
浦添城) の
舜天王が亡くなる。
舜天王の子・舜馬順熙 (すんまズンキ) が53歳の高齢にして王位につくも、わずか10年という短期間で終わる。そして、舜馬順熙の子・
義本王が誕生しました。しかしその時代は、未曾有 (みぞう) の大飢饉があり、疫病が大流行して『人民半ば失ふ』というありさまでありました。
.
『これは、予 (わたし) に徳がなく、天が見放したのである。この上は、王位を『有徳ある者』に譲り、予は退こうぞ。皆 (みな) の者、『有徳ある者』の名前を挙げよ』‥と、臣下に告げました。
.
⇔ 臣下らは皆、恵祖世主の嫡子・英祖こそ『有徳ある者』と答えました。
.
そこで義本王は、同じく浦添村の伊祖に住んでいた恵祖世主の子 →『英祖』に王位をゆずりました。
.義本王の在位は11年、ここに
舜天王統は3代で終焉 ⇔
英祖王統 (5代 / 90年) が開かれる事になりました。
中山国 (後の琉球国) の王統は、舜天王統 (3代) →英祖王統 (5代) →察度王統 (2代) →第一尚氏王統 (7代)→第二尚氏王統 (19代) へと続きました。 舜天王統 ~ 察度王統まで「浦添城 (古琉球) 」⇔ 第一尚氏王統 ~『首里城 (近世琉球) 』になり。王朝交替するも
天日 (テダ / 太陽) の子という思想は連続しています。
. ー(・・? ー?→
.
その後も

「
交替劇」と『
連続劇』の「
折衷劇』が連綿と続きます →
.
詳しくは解りませんが、
中国史では易姓革命 ⇆ 交替劇、
日本史では万世一系 ⇆ 連続劇。
との考えで。易姓革命は前王が徳の無い王であれば王朝交替しても良い。という儒教的な徳治主義ような考え方。
.
…
琉球史では
→
中国的な易姓革命の交替劇と日本的な円満退社の連続劇 ⇆ 折衷劇
王朝は交替しているけど ⇆ 血縁は連続している?見られます。
.
(・・? 後日に考えようと思いますが?
江戸末期の島津斉彬 (なりあきら) 時代の内紛と
2025年は石の総理とき内紛
軍事増産?富国強兵策?何か紀元前もの大昔から続く「儒家」と『法家』ような政治が関連している気もします。
.
ー?→
.
徳治主義 →
孔子は『論語』為政編において「為政以徳譬如北辰居其所而衆星共之 ⇆ 政をなすに徳を以てす。北辰 (←北極星) の所にありて衆星これに共 (つか) うるべき」と説き、君主を北極星
国家を星空
人民を星々に擬えて、君主が徳で国家・人民を治めることで、人民を正しい方向に導いて国家は調和されて安定すると説き、国家統治の要は法令や刑罰、軍隊ではなく道徳や礼儀であるとした。孟子もこの思想を継承して、刑罰や軍事などの力をもって国を治めることを「覇道」とし道徳や礼儀などの徳をもって国を治めることを『王道』とした。
.
だが、戦国時代に入ると、君主自身の能力への依存や運用の恣意性といった難点を有する徳治主義に対してあらかじめ決めた法令や刑罰でもって国を統治し、富国強兵を目指すべきであるとする法家が盛んとなってきた。彼らは「儒教」の徳治主義を批判したが ⇆ その一方で現実的社会に合わせて「折衷』の動きもあった。荀子は孔子が重視した「礼」にも規制的な要素があり、徳治の枠組みから外れる者に対しては刑罰などの制裁が科されるとした。また『法家』でありながら荀子からも学んだ韓非は「徳」が持つ君主からの恩恵の部分を捉えて信賞必罰の信賞の部分こそが徳の本質であると説いた。
.
極端な法家主義を取って崩壊した秦が途上で挫折した中央集権・王権至上の国家形成の路線は漢に継承された。ただし、https://share.google/NaXaJB3741pPbv2v3
↓↑
その類似政治は日本でも何度もデジャブしているように思います。
.
↓↑
日本史でも琉球史でも歴史の
勝者と
敗者の不思議な関係が見られ
勝者が
政治 ⇔
敗者が
祭祀を担当。
勝者の
家 (男性) は
敗者の
家から
后 (女性) を迎える ⇆ 水面下では日本側と琉球側の
霊的な
祭祀が結び付いていた

その仲介役は葛城族 (賀茂氏など) と 向氏 (朝さん) ⇆ それと関連キーワードに
カニマン 
や
天日子・
京太郎等が付随します。
.
.
.
(・・? 内容は飛んでいますが?
天日子 (てだこ / 英祖) に王位を譲った義本王は、島の南にある玉城 (たまグスク) で焼身自殺をする決意をしました。
玉城 (たまグスク) の玉は霊魂 (マブイ) を意味し、
玉城村は
琉球開闢神話の地と知られています。
.
ー

→
.
ところが
玉城村に到着後

急に
大雨が降って来て焼身自殺をする事ができませんでした。
.
島の各地を転てん → 沖縄島の最北端・国頭村辺戸の安須森御嶽 (あすむいウタキ) でヒッソリと暮らしたといいます。
.そのため、安須森御嶽に義本 (ぎほん) 王のお墓があるようです。後日に説明しようと思いますが、
義本王の子孫が向氏 (
朝さん) という説話も見られます。
.
.
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─扉─
━─↓ー .
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.
後ほど、
.
英祖王統の4代・
玉城王が酒色に溺れため、琉球国は「
北山国・
中山国・
南山国」「
3山国」に分裂する戦国時代となり、再び疫病が流行、政治も不安定な世を迎えた。
4代・玉城王が亡くなると、10歳の西威王が誕生するも、5代・西威王は幼いので、その母親で玉城王の妻である思樽 (うむたる) が政治を行う。 思樽は政治を私物化し世はさらに乱れた‥
.
そこで中山国 (浦添城) は、
義本王 〜 英祖王 (天日子 / てだこ) とき同様に
易姓革命ような円満退社による王朝交替劇が再び起き
英祖王統の西威王 (←母親が政治) 〜 察度 (さっと) 王に政治を譲り。英祖王統 (5代) は終わり ⇔ 察度王統 (2代) が始まります→
大きな交易船が入港できるよう → これまでの牧港 (浦添の港) ~ 那覇港に整備移転すると同時に →
.

そうした整備期間中

.
中山国 (浦添城) と
南山国 (大里城) は
天日子 (てだこ) の町
中山国は世子 (長男) や次男・正室の子 >
南山国は王子 (三男) や四男・側室の子、など。王家の「
本流」と『
庶流』の関係にあったようです。
.
またまた 
それも後日に考えようと思いますが、察度王統の流れを組むのは
金満 / カニマン
になります。 .
…
金満按司 (
カニマンあんじ) とは

→
金 (
カニ) は金属 / 鉄類

満 (
マン / たくさん)

按司 (あんじ) は職を司る按 (おさ / 長) →
金満按司 ≒ 製鉄職人という意味になります。
.

これまでキーワード →
.
後ほど、
尚巴志の (第一尚氏王統7代) も同様に
易姓革命ような円満退社の王朝交替劇が再び起き
内間金丸 (かにまる) による第二尚氏王統 (19代) の時代となります。
中山国 (琉球国) の王統 → 舜天王統 (3代) → 英祖王統 (5代) → 察度王統 (2代) → 第1尚氏王統 (7代) → 第2尚氏王統 (19代) 。 ↑↓
王朝交替 (政権交代) 時に、玉城 (たまグスク) が何らかの形で関与しています。
.
玉城 (
たまグスク) は沖縄のグスク群の中でも非常に
霊力の強い城 (グスク) 
.
玉城間切の垣花村 〜 真和志間切の垣花村 (のち小禄間切の垣花村) に移住者がおり ⇆ その子孫が儀間真常 (ギマしんじょう) と云われています。
↓↑
儀間真常はサツマ芋の普及やサトウキビ (黒糖生産) ・住吉信仰・木綿絣 など
結び付く生産職の重要人物。
.
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─扉─
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さかのぼること、
.
琉球は
察度王 (
カニマン組) の時代に
首里城が築城された?説があります。
↓↑
室町幕府の3代将軍・
足利義満の時代で。後ほど
義満は、4代将軍・
足利義持に将軍職を譲り
義満は
浄土造りの空間で
政治を行っていました。
.
琉球では
首里城が海外との商取引を展開して行きます

首里城の築城主との説を持つ
察度王の弟 → 泰期という人物が小禄城 (うるくグスク) を築城し、その跡地に
カニマンうたきがあります。
↓↑
その経緯 (いきさつ) は それぞれ異なりますが
カニマン
袋中上人・念仏廻り (エイサー)・京太郎・たまグスク・儀間真常・垣花村・小禄村・越来村・浦添村・など
向氏 (朝さん) と縁ある名前です。
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陸軍大佐・親泊朝省は浦添王子朝満 (尚維衡) の子孫。
↓↑
尚宣威王の
長男は越来王子朝理、次男は見里王子朝易、三女の居仁は尚真王の正室に。.長男の越来王子朝理は越来間切 (越来村) 、次男の
見里王子朝易は見里間切 (美里村) の地頭と云われています。
✽いま沖縄市
沖縄市は越来(ごえく) 村と美里村・コザ市が合併した市で、古くから第2の都と云われ、念仏廻り (エイサー) の里に。京太郎と縁ある町でもあります。 .
1603年の琉球国王・
尚寧王は
袋中上人に帰依しており
昔の僧侶は外交官の役割をしていました。
.
当時の琉球には、
首里城に住む
首里尚氏と
浦添城に住む
浦添尚氏があり、
尚寧王は
浦添尚氏出身の国王でありました。
.
…
通例では
→ 首里尚氏から国王が出るのですが、
前国王の尚永王 (
首里尚氏) は世継ぎなく早逝したので、異例な形で
浦添尚氏の
尚寧王が国王の座についていました。
.
浦添尚氏の
尚寧王は
小禄御殿 (うるくウドゥン) の4世で、
小禄御殿の元祖は
浦添王子朝満 (
尚維衡) で、那覇の
小禄村は
尚維衡 (
浦添朝満) の地頭 (領地) になっていたようです。
…
複雑お話
→ 小禄御殿の元祖・
尚維衡 (
浦添王子朝満) は、
第2尚氏王統の3代・
尚真王 (
首里尚氏) の
長男で
正室の子。← 本当は4代国王になる予定の人物でありましたが、政治的な謀略によつて王位の座を廃嫡されていました。
その事件後、
尚維衡は
首里尚氏 〜
浦添尚氏に降格。冤罪出来事によつて王位の座を廃嫡された
尚維衡 (
浦添王子朝満) を助けたのが、那覇の
辻村関係者で
その妻も辻村の女性でありました。 ↓↑
それを支えたのは、日本の霊的氏族・葛城族 (賀茂氏など) と結び付く
熊野信仰に関する組です。
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─扉─
━─↓ー .
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第13回 前の国と後ろ国 →浮島 (那覇島) にも、商人や鉄職人たちに支えられた熊野的な宗 (衆) の来島が古い時代からあったでは? 思う事ありました。
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浮島 (那覇島) には中国人が住む久米村と日本の商・職人たちが住む若狭町村という外国人居留区 / 租界地? ように時代があった。
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若狭町村に住まう日本の商・職人は、
薩摩商人 > 博多商人や近江商人・堺商人の流れを組む九州移住者・若狭湾 (日本海) の流れを組む商人や薬人・摂津国や和泉国の
茶人・薩摩商人だけど
その祖先は全国各地の行商人であったり。徳川家康が「
利用」しつつ『
封印』していた
浄土系の衆とも関連してるでは? 思います。
.
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…
琉球史では
→
中国的な易姓革命と日本的な円満退社 ⇆ 折衷劇
不思議な王朝交替劇が何度もデジャブしていた。
.日本史でも琉球史でも
歴史の勝者と敗者の不思議な関係が見られ
勝者が政治 ⇔ 敗者が祭祀を担当
勝者の家 (男性) は敗者の家から后 (女性) を迎える ⇆ 水面下では日本側と琉球側の霊的な祭祀が結び付いていた
その仲介役は葛城族 (賀茂氏など) と 向氏 (朝さん) ⇆ それと関連キーワードに
カニマン
や天日子・京太郎・熊野信仰など。付随します。
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ー;→
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(・・; 毎度こと;
長文駄文ブログなっていますが ; 文字数制限が近づいて来たので ; また文をまとめようと思います。
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