2021/10/23
鎌倉時代、
翌年の1282年、
円覚寺という禅寺が鎌倉に建立。
詳しくは解りませんが、
『円覚』とは、仏教用語で『どんな人も円 (まる) く覚 (さと / 悟) る』との意味を持っていたようです。
(・・? そのためか?
鎌倉の円覚寺 (禅寺) は元寇の戦死者を『敵味方』関係なく弔う菩提寺に。
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その円覚寺 (禅寺) ができたと同じ年、
一遍は寺をもたづ、遊行僧として全国各地を旅し、行く先々で民衆に念仏札を配って、念仏を勧めました。やがて一遍や信者たちの唱える念仏は「踊り念仏」という形に高まってゆきました。
一遍の一行が鎌倉の町に入ろうとした時 ⇔ 鎌倉幕府の執権・北条時宗は、一遍の一行を立入禁止しました。
一遍の一行が鎌倉の町に入ろうとした時 ⇔ 鎌倉幕府の執権・北条時宗は、一遍の一行を立入禁止しました。
―(・・? ―?→
名前は似ているけど
鎌倉幕府の8代執権・北条時宗 (ときむね) は、
どんな人でも円 (まる) く覚 (さと / 悟) る寺を開いていましたが ⇔ 一遍の一行を立入禁止していた事になります。
… 当時の鎌倉時代は →
武家政権 (幕府) が公家政権 (朝廷) を上回ろうとしていた時代で、まだまだ「民衆政治」は成立していません。
一遍上人は 日本の「民衆政治」と『断捨離ブーム』の先駆者と云われています。
―?→
(・・? またどうして?
1つは浄土思想 2つは怨霊信仰 → 歴史の敗者との関係。
‐ 1つ / 浄土思想について –
一遍一行の念仏踊りは浄土思想の1つで、浄土思想は「南無阿弥陀仏」と念仏を唱えて極楽浄土 (あの世) に‥‥ という教えで、この世は「穢土」⇔ あの世は『浄土』と教えは → 現政権の否定 → 政権交代に通じる可能性を秘めていました。
-・→
‐ 2つ / 怨霊信仰について –
1221年
後鳥羽上皇は鎌倉幕府から政権を取り戻そうと、朝廷 (京方) と幕府 (鎌方) の合戦・ 承久の乱を起こしました。結果、幕府側が勝利。
その乱とき、一遍の祖・河野一族 (河野水軍) は朝廷側に付き、祖父の河野通信 (みちのぶ) が陸奥国江刺郡に、伯父の河野通政が信濃国伊那郡に、伯父の河野通末が信濃国佐久郡にそれぞれ配流されるなどして没落、ひとり幕府方にとどまった河野通久の一党のみが残り、一遍が生まれた頃にはかつての勢いを失っていた。
一遍が生まれたのは伊予国で、伯父が配流された信濃国で念仏踊りを始め → 各地を歩き廻ります。 → 祖父が配流された陸奥国 → ・・ → 播磨国 → 亡くなったのは摂津国。その間に、熊野の地で『夢告』を受けます。
一遍は熊野信仰を再興した人と知られ。その熊野信仰には、日本には八百万 (たくさん) の神様がいるけど ⇔ 神様の本当の姿は仏様で、仏様が神様 (仮の姿) として権現する。と教えがありました。
端的にいうと
… 前回お話では →
ー(・・? ー?→
中国 → 朝鮮 → 日本といった北伝仏教の国では、古代から無意識にも、儒教「的」な物と道教「的」な物が仏教の中に組み込まれて伝来しているようです。
霊的 (道教的) な子供は『あれもこれも』欲しい ⇔ 礼的 (儒教的) な母さんは「白黒ハッキリ」しなさい、言いました。
→ → → →
古代中国では、
秦帝国が道教「的」な吸収作用が強すぎて崩壊 ⇔ 漢王朝は儒教「的」な分離作用が強すぎて崩壊したといいます。
五山系 (禅) は礼的 (儒教的) 、
⇔
熊野系 (浄土) は霊的 (道教的) 。
― →
五山文学 ≒ 儒学で、
江戸時代の儒学者は禅僧出身者が多数。
⇔
― →
そのどちらが正しい? と意味ではなく、
… また前回お話では →
犬は居ぬ? ← いない。
‐ 参考情報 ‐
―?→
――…―…→→
時代は異なるけど、
藤原純友は伊予国の日振島を重要な拠点としていました。← 結果、中央政府への反乱に結び付きます → https://ja.m.wikipedia./承平天慶の乱
(・・? 西園寺氏の家紋は八幡マーク
… 上記の文は →
ー * →
俗説とも云われていますが、
東国で平将門が乱を起こした同時期 西国では藤原純友が乱を起こし → しだいに中央政府を脅かすようになります。東国の平将門は桓武天皇の子孫で 西国の藤原純友は藤原摂関家の子孫であったので、東西の「地方政府」が『中央政府』と「政権交代』を。という説がありました。
東西の「地方政府」が『中央政府』と「政権交代』を。という説は俗説と云われていますが、日本では古今東西とも「政権交代』の蔭には、古くは役小角 ≒ 葛城族 (賀茂氏など) の霊的権力者が登場し、葛城族 (賀茂氏など) とともに行動する『海の衆』がいました。
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