2022/06/16
前回のブログでは、
こんな1文を載せて見ました。
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(・・? 不思議お話?
むかし琉球国の政治も儒学で 民衆政治に結び付いた政治も儒学? あった事です。
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… 念仏廻り (エイサー) とは →
浄土系の念仏踊りを由来とする物で、江戸時代の始まりとも秘密が思われます。
江戸幕府を開いた徳川家康は、
その浄土系のエネルギーを「利用」しつつ『封印』した人物でもあります。
徳川家康は戦時に『厭離穢土欣求浄土』という旗印 ← 浄土系の思想を利用していましたが、徳川家康の政治は「儒学」で 保険は『浄土』になっていました。それは「利用」しつつ『封印』していた事でありますので、あまり目立たない秘密です。
浄土系の思想には、
「この世は穢土 ⇔ あの世は浄土』という仏教の原点 (苦のサイクル) に近い死生観があり、そうした思想は現世の? 現政権の否定に結び付く事も考えられ、政権交代する前は「利用」されるけど ⇔ 政権交代後 → 政権維持する時は『封印』される傾向が見られました。
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1603年に江戸幕府を開いた徳川家康が警戒していたのは「武家の豊臣家」と『公家の朝廷』との関係で、江戸5街道の1つ・甲州街道は徳川政権が滅亡した際の避難街道 → 保険街道として整備。その甲州街道 (保険街道) 沿いには 浄土 (あの世) に関する物も整備されていたようです。
むかし甲州街道沿いには、
小石川区諏訪町、小石川区掃除町など。信濃国は善光寺の末寺・伝通院を由来する地名があり、
「宗」の中の『衆』がおり。徳川家康の祖先・徳阿弥も衆の関係者と云われています。
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むかし東京府小石川区後楽園ホール辺りに水戸家の仕事場があり、水戸家は徳川御三家の末子の家にあったので、徳川家康は水戸家にある保険をかけていました。
… ある保険とは →
「武家政権」〜『公家政権』に交代した際の保険で。江戸幕府は、建前上は「朝廷 > 幕府」 実質上は『幕府 > 朝廷』という政治をしていましたが、仮にその政治が崩壊し → 実質的にも「朝廷 > 幕府」という政治になった時の保険として、末子の家にあった水戸家に朝廷との結び付きを行い 江戸幕府が崩壊しても徳川家の血筋が途絶えぬよう 浄土 (あの世) の計画も建て云われています。
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(・・; けれども ;
江戸幕府は徳川家康が用意周到にかけていた保険によつて崩壊してしまいます。
豊臣秀吉の臣は太政大臣の臣。
「太政大臣と関白」は公家的、
⇔
『征夷大将軍』は武家的。
地位的には、
太政大臣 > 関白 > 征夷大将軍。
豊臣秀吉は武家的な官職・征夷大将軍ではなく、公家的な官職・関白 → 太政大臣となり、天下人を目指していました。
一説によると、
豊臣秀吉は身分の低い出で、天皇家との血筋が関与する征夷大将軍の称号を得る事は太政大臣の位よりも難しかったようです。
官位は征夷大将軍 < 太政大臣、
⇔
家柄は征夷大将軍 > 太政大臣。
そのため、
徳川家康は「天下取り」以上に天皇家の血筋と関連する『征夷大将軍』という称号を得る事にもっとも苦労したと云われています。
その征夷大将軍の称号は「国内」では通用したけど『国外』では通用しない称号でした。
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沖縄県では、
野菜しりしり器と呼ばれる金物がよく使用されています。その野菜しりしり器は沖縄県では製造されておらづ ⇔ 8割ほど新潟県の燕三条市で製造されていたけど、その新潟県ではほとんど使用されていないと云います。そうした金物ミステリーの起源を辿ると!? 1603年 に来沖した浄土宗の僧・袋中上人を由来すると思います。
琉球にエイサー (念仏廻り) を普及させた人物と知られ、京都の三条通りに檀王法林 (だんのうほうりん) 寺を創設。その三条通りには『釜座』という金物の座 (同業組合) があり、鉄職人たちが集まる場にもなっていたようです。
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那覇の小禄 (うるく) 村には、袋中寺 と 金満御嶽 (カニマンうたき) があります。
袋中寺は1603年に来沖した浄土宗の僧・袋中上人を由来する寺で、同じ村内には カニマンうたき、金城 (カニぐすく) 、鏡原、鏡水、など カニを由来とする地名が複数見られます。
金満按司 (カニマンあんじ) と呼ばれた製鉄職人たちの御嶽 (うたき) です。
金 (カニ) は金属 / 鉄類、満 (マン) は満 (たくさん)、按司 (あんじ) は職を司る主 (あるじ) の事で 金満按司 ≒ 製鉄職人という意味になります。
小禄御殿 →
… 複雑お話 →
小禄御殿の元祖・尚維衡 (浦添王子) は、第2尚氏王統の3代・尚真王 (首里尚氏) の長男で正室の子。← 本当は4代国王になる予定の人物でありましたが、ある政治的な謀略によつて王位の座を廃嫡されていました。
側室の子・尚清 (せい) が琉球の4代国王として即位した事と 守礼門 (儒教的な門) が整備された事は軌を一にしているようです。
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… そのほか →
… 易的にいうと →
内容は複雑していますが、
1666年に摂政 (総理大臣) を務めた羽地朝秀 (唐名・向象賢) は「孔子廟」← 儒教施設を建てました。
後ほど、中国では孔子廟の隣に明倫堂という学校が Set で建てられる事を知り、明倫堂建設を目指します →
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高山彦九郎は、
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時代は下り、
水戸家の会沢正志斎が記した『高山彦九郎伝』という書物を見た 吉田寅次郎は その内容に感銘受けたといいます 高山彦九郎の諡号 (しごう / 忌名) は『松陰以白居士 (しよういんいはくこじ) 』であったので、吉田寅次郎は吉田松陰という名前になり、明倫館という学校に結び付いた 云われています。
琉球の明倫堂 細井平洲の明倫堂 吉田寅次郎の明倫館? 名前が似ている事が気になりました。
その時代は、
中国でも日本でも琉球でも、2つの政治が揺れ動いていた時代で、細井平洲は『どんな人でも学ぶ権利』という思想を持ち、尾張国東海市名和町で生まれていたようです。
(・・? もしかすると?
名和という名前は『南朝』的な名前では?思えて来ました。
折口信夫 (しのぶ) 氏による、
第一尚氏は名和氏の残党という説があります。
越来村 (いま沖縄市) は第一尚氏の里と云われ。たまたまなのか? 米沢市と東海市・沖縄市 3市が姉妹都市になっている事も気になりました。
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