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第11回 前の国 と 後ろ国

1600年4月
オランダ船籍のリーフデ号が九州島は豊の国 / 黒島に漂着しました。

ー (・・?  ー?→

リーフデ号東インド会社ロッテルダム支社が所有する船で、オランダはロッテルダムの港から出港。

ご迷惑をおかけします 東インド会社 ご迷惑をおかけします
インドの会社ではなく、当初は蘭国英国のグローバる企業で1600年に設立された世界初の株式会社 → しだいに海外侵出の端緒 (糸口) にもなって行きます。

オランダスペイン (天主教の国) から独立した基督教に重きを置く商業国

当時の西欧諸国では、
天主教の国は「政治 > 商業」体制、
基督教の国は『商業 > 政治』体制。
傾向が見られたようです。


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徳川家康は、
漂着したリーフデ号 (オランダ船) の乗組員たちを大坂 → 江戸に呼び寄せ、海外情勢を収集する事にしました。

船長の名前は、
三浦按針 (ウイリアム・アダムス) という英国人。

航海士の名前は、
耶楊子 (ヤーン・ヨーステン) という蘭国人。

後ほど、三浦按針 (ウイリアム・アダムス) は三浦半島に住み、耶楊子 (ヤーン・ヨーステン) が住んた地は八重洲 (ヤンヨス) と呼ばれ、今でも東京都に八重洲 (ヤンヨス) 駅 / 名残があるようです。

ご迷惑をおかけします 当時の世界情勢は ご迷惑をおかけします
天主教の国・スペインが台頭していた時代で てんびん座 同じく天主教の国・ポルトガルもスペイン国王フェリペ2世を迎えて実質的にスペインに併合された時代。
↓↑
「旧勢力・スペイン ⇔ 新勢力・オランダ』2国が世界の商業覇権を競う時代であったようです。



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徳川家康は彼ら (オランダ人) から世界情勢を問うていました。

徳川家康 →
世界情勢はどうなっていますか?

蘭語 →
ナーナーあったーやイッペーやっけーむんローきーちぃきてぃクィミソーレ

和訳 →
それはそれは (ナーナー)
彼らは (あったーや
とても (イッペー)
厄介者 (やっけーむん)
だよ (ロー)
お気をつけ (きーちぃきてぃ)
ください (クィミソーレ)

徳川家康 →
ハッサビヨー!?
あったーデージやっさーや!?
アンセーうりからやマジュンいちゃびらやーさい。

和訳 →
それでは (アンセー)
これからは (うりからや
一緒に (マジュン)
歩みましょう (いちゃびらやーさい)
そうした世界情勢を知った徳川家康は、天主教を「封印」⇔  オランダ文明を取り入れるようになって行きます →

ー はてなマーク →

(・・? その前に?
豊臣秀吉によるバテレン追放令 (天主教の封印) が行なわれていましたが、それは「政治封印 てんびん座 商業黙認』といった緩やかな物で、まだまだ日本で活動する天主教徒や 長音記号2 それに結び付く商人は多数おり、またフィリピンほか、東南アジア方面に『日本町』を形成するほどの海外交流が行なわれていたようです。


ご迷惑をおかけします フィリピンの語源は ご迷惑をおかけします
スペイン国王・フェリペ2世を国名 (フィリピン) に由来するほど天主教の多い国で、豊臣秀吉のバテレン追放令に反発していた高山右近 (天主教徒) もフィリピンで活動し 長音記号2 日本町や日本の商船とも結び付いていたようです。

ー (・・?  ー?→

内容は複雑して行きますが、
1600年4月にオランダ船籍のリーフデ号

1600年10月「関ヶ原の戦い』の勝利した徳川家康は「政治には儒学 ⇔ 商業には蘭学』に重きを置き → 政治商業のバランス てんびん座 して行きます →
↓↑
鎖国派は儒学 ⇔ 開国派は蘭学。に、重き置く時代もあったようです。

ご迷惑をおかけします 類似お話 ご迷惑をおかけします

古代中国でも儒教体制的 ⇔ 道教抵抗的』政治が見られ、そのどちら一方に傾き過ぎると てんびん座 国家転覆する事がよく見られました。

江戸時代は、
政治には儒学 ⇔ 商業には蘭学』に重きを置きスタート 自転車 良くも悪くも てんびん座 そのバランスが大きく揺れ動いた時期 てんびん座 何度か見られたように思います。

 (・・?  複雑お話?
儒学儒教学問だけど ⇔ 蘭学はオランダ (基督教学問? ← という意味ではなく、蘭語で記述された多国籍 (商業な学問であったようです。

昔であるほど、
体制的 / 老舗のキリスト教儒教商業軽視する1面 (商業軽視) が見られ ⇔ イスラム教商業重視していました。そのため 目 商業活動が盛んな東南アジアイスラム教徒が多く多国籍文明が見られる 目 云われています。

ー はてなマーク →

 (・・?  もしかすると?
多国籍 (商業) な蘭学の源泉はイスラム科学にあったのでは? 思えて来ました。 

イスラム教の科学という意味ではなく、キリスト教やユダヤ教・仏教・道教・その他の教など。多種多様な宗教思想を科学的に進展させた天文学や医学・物理学・など。
世界初の図書館と病院はイスラム教国から生まれていました。

蘭学者の杉田玄白『解体新書 (医学書) 』の源泉もイスラム科学にあった? ようにも見えます。

ー はてなマーク →

(・・? 突如として?
キリスト教お話 〜 イスラム教お話になっておりますが、西欧諸国商業基盤イスラム科学を由来とし、0123 (アラビア数字) もイスラム教のムスリム商人が普及させていました。キリスト教 (政治) イスラム教 (商業) の中継点が東南アジアにあった事を思い出して見ました。



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 ご迷惑をおかけします 芋の島 その1  ご迷惑をおかけします
 ⇔ 新芋 (サツマイモジャガイモ) の原産地は南米だけど、馬来 (マレイ) を拠点としていた商人たちが南米より持ち帰ったと云われています。

馬来 (マレイ) を拠点としていたのは、
イスラム教のムスリム商人 → ポルトガル商人 → オランダ商人 →


馬来 (マレイ) には回教徒 (イスラム教徒) の馬三保ムスリム商人 (イスラム教徒の商人) とともに来島。

馬来 (マレー) 半島の南西部にはアユタヤ朝 (タイ) に属するマラッカ朝があり。後ほど。ポルトガル領マラッカ → オランダ領マラッカに。イエズス会のフランシスコ・ザビエルはここから東アジア布教に出発している。


明の時代、
内政に重きを置く 儒家勢力 外向に重きを置く 宦官勢力 の2つ勢力があり、明朝の3代・永楽帝は、宦官勢力 の協力を得て帝位についたので、外向の政治家 側に重きを置いていました。



明朝の3代・永楽帝が亡くなると、外向に重きを置く 宦官勢力 の勢いは衰退し ⇔ 内政に重きを置く 儒家勢力 の勢いが増して行き、鄭和 (ていわ) の艦隊が作った『航海地図』などが焼かれてしまいました。

その航海地図』は、中国大陸では姿を消しましたが、E欧諸国には残ったと云われています。

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明代の1557年には、
中国の南蛮地域 / 広東省のマカオのみ、ポルトガル商人が私貿易を行う事を許可しました。




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ー はてなマーク →

(・・? なんとなく?
東南アジアは古くから多国籍な商人たちの文明交差点になっていた事が見えるような気がして来ました。

← 西に回教徒 ← ⇔ → 東に天主教徒 →
インドのゴアと中国のマカオの『中継点』がマラッカ てんびん座 ある時代のポルトガルは実質的にスペインに併合されていたようです。



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西洋でも東洋でも比較的、
旧タイプ政治的 ⇔ 新タイプ商業的な姿勢を見せ信徒獲得の様子が見られます。

西欧で抵抗運動 (プロテスタント) が起きていました。https://www.asaobo.jp/blog/3174 

抵抗的基督教は またたく間に西欧の商業地にが広まったので ⇔ 体制的天主教も反省会を行い庶民的 / 商業的な姿勢を見せ → 東南アジアや中国・日本に布教活動の会を派遣したと云われています。

ご迷惑をおかけします 比較的 ご迷惑をおかけします
キリスト教国では、
天主教政治的 ⇔ 基督教商業的

儒教国では、
朱子学政治的 ⇔ 陽明学商業的
傾向があったようです。

目 江戸時代の基点は 目
内政儒学 (朱子学)  ⇔ 外交 (商業) 蘭学』→

儒学 (政治) 体制的 ⇔ 蘭学 (商業) 抵抗的』といった体制でバランスをとっていたようにも見えます。



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1603年
徳川家康は朝廷より征夷大将軍の称号を得て 自転車 江戸時代が始まります →

同年、長崎の平戸にオランダ商館 → のち出島にオランダ船を朱印状貿易 / 海外交易の基盤に。

1604年
江戸幕府は日本島の北端に松前藩を設置してアイヌとの独占交易を許可。また同年、朝鮮との国交樹立を行う。

1607年に朝鮮通信使が来日。

1609年
江戸幕府は『大船建造の禁』を発布し、諸藩の大名たちが大きな商船や軍船を造る事を禁ずる法案を出します。
その法案 は、
主に西日本各国の大名たちが商的エネルギーや軍的エネルギーを用いて江戸幕府 (徳川政権) を上回らぬよう アップ地方統制策ダウン で武家諸法度の前身とも云われています。

 ご迷惑をおかけします 武家諸法度とは ご迷惑をおかけします

地方の政治家 (大名) が 中央政府 (徳川政権) を上回る事ないよう アップ地方統制策ダウン 。

1609年
日本は琉球と戦争を行う。
その戦争で琉球は敗れたのですが、独立国という形は残したまま → 引き続き → 明朝 (中国) との朝貢貿易は行なわれます →

(・・? どうして ?
敗れた琉球国は滅亡せづ独立国を維持できたかいうと? 徳川家康の征夷大将軍の称号は「国内 (政治) 」では通用したけど  ⇔『国外 (商業) 』では通用しなかった事と関連しており、江戸幕府は琉球を中継国として中国とも貿易を行います。

昔の教科書では、
江戸時代は「鎖国」→「自給自足」という印象を与えかねない記述も見られましたが、
厳密には「鎖国」というよりもアジア地域でよく見られた『解禁』政策に近いと云われています。


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1600年 〜 1609年の出来事を振り返って見ると? 徳川政権は「あるエネルギー』を「利用」しつつ『封印』して行く様子が見えて来ます。

それはこれまで日本で黙認されていた天主教と結び付く商業活動 長音記号2 天主教徒たちは日本では浄土系の衆徒をライバル視していた事と関連しているかもしれません。

天主教徒は浄土系の一向衆徒をライバル視していた。というのは「清貧の心持ち」など、存在 (キャラ) が被り支持者が重複ためと云われています。それは民衆政治にも結び付く『商的』エネルギーで 長音記号2 時の権力社たちは、そのエネルギーを「利用」しつつ『封印』していました。

浄土系の人々は一向衆とも呼ばれ「宗」とは無関係の『衆』も多く 長音記号2 民衆政治にも結び付く商的エネルギーを持っていたようです。

ー 注意 ー * 

ここで1つ
補足をしなければ行けない お話があります。

『民衆政治に結び付く商的エネルギーを封印』というキーワードについて。← 時の権力社が見たら公平性を欠く文になっているかもしれません。

当時の行商人たちは、
座 (組合) や 関所 (通行所) とか? 関係で お寺に所属する人々が多く、戦国時代の「お寺」と 江戸時代の『お寺』は意味が異なり、戦国時代の お寺は武器庫にもなっていて、お寺も兵的エネルギーを持っており。当時の民衆政治は『商的 / 兵的』エネルギーが Set の関係者にあったようです。

そのため、
戦国大名の世界では天主教徒と一向衆徒の取締りは基本中の本になっていましたが、上記文にあったように、江戸時代前の取締りは比較的緩やかな物で商的分野においては黙認があった。2宗の取締りが厳しくなったのは、戦国時代よりも江戸時代と云われています。

 ご迷惑をおかけします ここから先お話 ご迷惑をおかけします
下書きメモ帳で後ほど文をまとめよう思います。



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ある日のブログ では、

辺野古と銚子の語源は似ているでは? 考えて見ました。

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日本島の東端は三前 (みさき / 三崎) と呼ばれ、
1644年ころ 〜 文献上で『銚子』という文字が見られるようになったと云われています。


(・・? もしかすると ?
銚子の『銚』は金属 / 鉄類を由来文字にも思う事ありました。

ご迷惑をおかけします 意外お話 ご迷惑をおかけします
総の国は「さつまいも」の里 てんびん座 となりの常陸国は『干しいも』の里になっていたようです。

干しいも原料はさつまいも てんびん座 薩摩の前田利右衛門という人物が九州島に普及させていた芋を儒学者蘭学者でもあった青木昆陽を由来とし てんびん座 東京府の小石川区にはさつまいも研究所? ような施設があったようです。

前田利右衛門 (リエモン) は、
薩摩の山川港 (いま指宿市) の海運業者 / または漁師で。山川港ザビエル上陸港と知られいるようです。

(・・? 前田 → 利?
関連してるは解りませんが、その昔、豊臣秀吉のバテレン追放令に従わなかた摂津国の切支丹大名・高山右近は、加賀国の外様大名・前田利家に一時保護された事も。

前田利右衛門と前田利家? 名前が似ています。

海運業者の前田利右衛門は国禁を犯して琉球に渡て → 儀間真常が沖縄島に広めていた唐芋を日本に運ぶ → のち青木昆陽がリエモン芋を小石川薬園で栽培。

さつまいもは中国のマカオ方面から伝来したのですが、その原産地は中・南米大陸であったと云われています。




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7代将軍・徳川家継は8歳で早世し、 徳川本家は途絶え 長音記号2 徳川御三家の紀州家より徳川吉宗が8代将軍に。

8代将軍・徳川吉宗の時代に、青木昆陽は江戸の小石川村 → 下総国の馬加 (まくわり / 幕張) 村 → 上総国の99里村にサツマイモ栽培します。
(・・? その前後ころ? 99里村白里村など。
百 (たくさん) / 白 (多く / 99) 紀州漁民が引越して来た云う。

(・・! 紀州といえば?!
雑賀衆の里?!

雑賀衆一向宗 (衆) 徒が多くいた云う。

青木昆陽の祖先は摂津の海人で、彼らは浄土系の関係者が多く、当初は江戸の小石川村に住んでいましたが、1644年ころ、佃島という人工島を築島しその島に住まうように。
佃島のとなりには石川島→
佃島と石川島は同時期に てんびん座 タイプの異なる浄土系の関係者たちが主に築島と云われています。


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徳川家康は若いころ、
浄土系の「一向衆」と『武田衆』に苦しめられ、命の危険を感じた事があるようです。

(・・? けれども ?
徳川家康はその「2衆』のエネルギーを「利用」しつつ『封印』していました。
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%AC%E5%A4%9A%E6%AD%A3%E4%BF%A1
本多正信 

越の国と摂津国 てんびん座 南九州は、浄土系の拠点になっていた時代があったようです。

関東方面を支配していた小田原の後北条氏は豊臣秀吉と徳川家康によつて滅ぼされます。
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E7%94%B0%E5%8E%9F%E5%BE%81%E4%BC%90
小田原征伐

新たに関東支配を行うようになった徳川家康は後北条氏とライバル関係にあった武田衆に江戸5街道の1つ・甲州街道を整備させます。

甲州街道を整備した人々は、
甲斐国と信濃国の関係者が多くいたようです。

戦国時代、
武家の武田家と公家の三条家は浄土系の宗派と政略結婚をしていたといいます。
詳しくは解りませんが、
浄土系の顕如の夫人・如春尼は三条公頼の娘で 長音記号2 その姉は武田信玄の夫人・三条夫人であったといいます。


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1609年
江戸幕府は『大船建造の禁』を発布し、諸藩の大名たちが大きな商船や軍船を造る事を禁ずる法案を出します。

佃島のとなりには石川島→
江戸末期、しだいに国防意識も高まり、大船建造の禁も緩和、石川島でも大船建造が行なわれていました。

1609年
日本と琉球は戦争 → 浄土系の儀間真常も日本に連行しました。

儀間真常が琉球に普及させた芋 (ンム) を前田利右衛門 → 儒学者蘭学者でもあった青木昆陽が小石川村に研究所。青木昆陽の祖先は浄土系の摂津の海人で。彼らは当初、甲州街道沿いの小石川村に住んでいました。

小石川村 / 甲州街道を整備したのは武田衆であったようです。

儀間真常は1644年に亡くなっています。
1644年は明清交替の時期で、マカオで活動していた商人たちは、総の国と常陸国に。← さつまいもと干しいも里に。

目 江戸時代の基点は 目
内政儒学 (朱子学)  ⇔ 外交 (商業) 蘭学』→

儒学 (政治) 体制的 ⇔ 蘭学 (商業) 抵抗的』といった体制でバランスをとっていたようにも見えます。



竹。。



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