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第3回 忘れられた理念

歴史はライデンシャフト →
「感情論」よりも『情念論』。

いまだ? その意味は解りませんが、昔ある本に「その文』が記載され心に響きました。

ー(・・? ー?→

最近のブログでは、
近代史に関連する内容を記載して見ました。
近代と現代の空気は大きく異なるけど、近代の思想は現代の政治と強く結び付く物に感じました。

近代史は心を痛める場面が多く。そういうお話を蒸し返すべきではないと思うけど、歴史は何度も繰り返しデジャブする → 思った事があります。

ご迷惑をおかけします 近代史では ご迷惑をおかけします
江戸幕府と明治政府 →
幕府軍 (主に会津藩) と 長州藩 による幕長戦争を端緒 (糸口) に人と人が憎しみ合う物語が存在していた (いる) ようです。

長州藩と会津藩 →
その源泉は同じ? 非常によく似ていました。

「スタート」は同じ 自転車
『ゴール』は異なる。

目 フタを開けて見ると 目
あの憎しみは何だったのか?
物語にもなっていました。

ー(・・? ー?→

注意 陰謀論的な情報では

「民衆」と『民衆』を「感情論』に向ける情報が多種多様みられます。

ー・→

net 上には、
「現代の政治は誤りで近代に戻ろう」という情報も見られますが、民衆政治は地道に形成され日々揺れ動く物。その時代の「空気』は糸も簡単に作られるので、昔も今も同じ → 歴史 (政治) は色や形を変えて何度も繰り返しデジャブしている → 思います。

注意 陰謀論的な情報では
明治維新は「西方 / 外側」から始まったので・・。という情報が多く見られるけど ⇔ 視点を変えると ⇔ 明治維新は『東方 / 内側』から始まっていました。

ご迷惑をおかけします ある日のブログ は ご迷惑をおかけします
原発の里は賊軍 (敗者) の里にある。という話題や菅原道真の祟りについて載せて見ました。


古代史ブログでは、
明治維新は日置族と日置族の戦い てんびん座 原発の里も日置の里が多く見られる。と話題になっていました。

菅原道真も長州藩の毛利家も薩摩藩の島津家も原発の里が多く見られる越の国に住んでいた安田氏も日置族の子孫と云われています。

ー(・・? ー?→

古代には、弓矢を作る「弓削部」、麻糸を績む「麻績部」、馬具を作る「鞍作部」、玉を作る「玉造部」、番犬を育てる「犬飼部」、南方の防人「久米部」、北方の防人「佐伯部」‥‥、鵜飼部、日下部 (くさかべ / 草壁)、日置部 (ひおきべ) など‥‥ 職業部民があり、そのうち日置部という祭祀儀礼に関する職業部は菅原氏の祖である土師 (はじ) 氏が担当していました。

*日置は「火起」に通じ、日置族の長が土師氏。


最初ころ、日置部は太陽祭祀 (太陽観測) を司り、暦に精通し、豊漁、豊作に通じていました。そして、太陽祭祀の使用道具である埴輪や土偶、土器製作に使用する『火』は製土の他、製鉄、 製塩にも通じ、やがて日置族は一部をシャーマン(太陽祭祀)に残し、製土、製塩、製鉄 → それに関連する職業部に通じて行きます。

彼ら (日置族) は、太陽の祭祀集団(土器職人)であると同時に武力集団(鉄器職人)のような役割をしていました。そして次代に、日置部 / 日置族は大和国家の新たな支配地へ中央から送りこまれた尖兵 (久米部や佐伯部) にも通じたようです。


また日置族は、もと海部族だった人々が多く、古代の海部族は「蛇 (ヘビ / 長)」をトーテム (蛇信仰) としていたので、蛇 ≒ 長 / 那珂 / 中、海蛇 ≒ 宇嘉 / 宇賀、久米や佐伯、などといった地名が日本全国「日置の里」近くに多く見られます。


「鵜 (ウ) 」の古語は『鵜 (あたく / アダク) 』

谷川健一氏によると、
『鵜 (あたく / アダク) 』が 安田 (あだ) 、阿多 (あた) 、阿陀 (あだ) 、阿太、吾田 など。関連説が有力視されています。
*阿多族 ≒ 日置族


その昔、若狭国大飯郡高浜町日置。という住所があり、今日では「原発の里」と知られ ⇔ 古代には『日置の里』として知られていたようです。

https://www.asaobo.jp/blog/3237 



ダンプカー―…ご迷惑をおかけします―…ご迷惑をおかけします工事中


思想史ブログでは、
明治維新は保科正之 と 山鹿素行 の代理戦争?

その第1ラウンドは忠臣蔵に登場する赤穂藩と吉良上野介の・・? 自転車 第2ラウンドは幕府軍 (主に会津藩) と 長州藩 による幕長戦争? という風な情報も見られました。

古代史ブログ思想史ブログに載っていたキーワードは てんびん座 重複する部分が多大にあるようです。

ご迷惑をおかけします 江戸時代ころ ご迷惑をおかけします
保科正之 と 山鹿素行 は会津藩に縁ある人物で、
保科正之は朱子学 (儒学) に重き置く人物 ⇔ 山鹿素行は朱子学を批判したとして播磨国の赤穂藩に配流された儒学者。保科正之が亡くなると山鹿素行は江戸に。

長州藩の吉田松陰は山鹿の兵学を持つ儒学者で、その山鹿流兵学山鹿山鹿素行の名前を由来しているようです。

ハムスターまたまた 足あと
長州藩の吉田松陰は保科正之の師である山崎闇斎の思想を由来する靖献遺言 (せいけんいげん) を愛読していたと云われています。


保科正之の師である山崎闇斎の儒学は崎門学 と呼ばれ、その崎門学派の竹内式部、梅田雲浜、有馬七? など。日置の里と縁ある人物であったようです。

山崎闇斎


垂加神道


ー(・・; ー;→

このまま終了すると;
大変な誤解を招いてしまいますが;この度のお話は非常に複雑で難しく思いますので、また文をまとめて見ようと思います。


ダンプカー―…ご迷惑をおかけします―…ご迷惑をおかけします工事中


思想史の視点で見ると →
目 自分で自分を亡ぼす物語が存在するようにも見えました 目
江戸幕府は江戸幕府によつて亡ぼされた。仏教も仏教によつて滅ぼされ、江戸幕府の最後の将軍・徳川慶喜 (水戸家の将軍) も 水戸学 (儒学) によつて亡ぼされているようにも見えます。

江戸幕府の「始点」は『終点』と「隣合せ』であった。その事は、徳川家康は2つの思想を「利用」しつつ『封印』していた事と関連しているように思います。

1つは王制的な宗教、
2つは民制的な宗教。
↓↑
「王制」と『民制』も「隣合せ』であったのか? 思えて来ました。

ご迷惑をおかけします 寺請制度は ご迷惑をおかけします
戸籍制度やマイナンバー制度ような役割をし、天主教の封印と民衆救済を党是とする仏教の形骸化? 民衆の監視制度? 兼ねていたようです。
↓↑
江戸幕府は江戸幕府によつて亡ぼされた。

歴史はライデンシャフト →
「感情論」よりも『情念論』。

◎か☓か?
感情論に走る民衆は自分で自分を亡ぼす日が来るように思えて来ました。



竹。。



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